MIKADOは最新作『HOMUNCULUS』に至る1年で何を見せたのか その歩みと魅力を“3つの視点”から徹底分析
こういった魅力を兼ね備えたMIKADOの音楽は、間違いなくリアルだ。同郷のプロデューサー・TOFUとの名義でリリースされた『New Vintage』は、煌びやかで享楽的なライフスタイルを描写しながらも、「Amiri Star」という儚い楽曲を筆頭に、そんな生活のなかでの自分らしさやピュアさを、世間や社会から奪わせないことを描いていたように思える。
『Re:Born Tape』収録の「Drugbaby2 (PURE)」における〈みんな騙されるな数字/騙されるな数字/信用してない数字/0から来たからないカラクリ〉のラインは、前述した技巧的な側面を前面に出しながら、数字だらけの社会に警鐘を鳴らす。しがらみに溢れる世のなかで、いかにピュアでいられるか。彼の人生を辿っていくようなこのミックステープのクライマックスに、過去を受け入れながらも固い決意とともに開放感を湛えるこの曲が据えられる意味は大きい。
『New Vintage』と『Re:Born Tape』の二作で必死に守ったピュアさと、それとは対照的に浮かび上がる束縛的で抑圧された社会、そして大きくなっていく豊かな生活への渇望は、資本主義リアリズムと個人の関係性を映し出す。そういった等身大で絵空事なしの切実な描写の積み重ねが、MIKADOが宿す“リアル”なのだ。それはスキルフルな技巧と感覚的な快楽性を両立する彼の音楽性にも通じている。
リアルな存在としてのMIKADOの音楽は、最新作『HOMUNCULUS』のスタンドアローンな出立のなかでも光っている。同郷のプロデューサー・Homunculu$が揃えるトラックは、これまでの彼の作品以上に多様な仕掛けがあり、予測不能なサンプリングやビートスイッチなど、遊び心に溢れている。それを柔軟に乗りこなしていくMIKADOのラップは、前述したようなスキルと自由度を兼ね備え、ここ一年の歩みを経たのちの自らを省みる場面も見せる。
テキサスラップのクラシックアルバムであるUGK『Ridin’ Dirty』収録の「Hi-Life」のサンプリングや、アトランタのラッパー・SahBabiiのネームドロップなど、世代を超えたUSのサウスラップアーティストへのリファレンスも散見され、彼の音楽的な趣味性も垣間見える。重厚で内省的な作品とも、パーソナルであるがゆえに湿っぽくなった作品とも違う、大胆でユニークな仕掛けの数々やMIKADOの変幻自在な身軽さが、作品を独自の魅力を持った中毒性あふれるものにしている。
さらに、客演なしの構成で逆説的に目立つのは、仲間という存在への言及だろう。収録曲の多くで仲間とのライフスタイルを描写しながら、仲間と同じように豊かな生活を夢見て、仲間とともに足並みを揃えている描写が積み重なっていく。クライマックスの「Solo」は〈Solo 1人じゃないけどsolo〉というラインから始まり、地元や仲間との精神的な繋がりを持ったうえで夢に向かっていく様をエモーショナルに描いている。
MIKADOは自己についての表現のなかでも、社会や他者の存在を決して溢さない。だからこそ、彼のラインに、意識に、音楽に、多くの人がつながることができるのだ。
MIKADOの音楽は、スキルフルで、快楽的で、何よりも人々を繋げる説得力を内包している。『HOMUNCULUS』を聴いて、その歩みが止まることはないことを、あらためて確信した。
※1:https://fnmnl.tv/2024/09/04/161599
※2:https://rollingstonejapan.com/articles/detail/42845/1/1/1

























