宇多田ヒカル、夢と現実の狭間に灯す美しい光 25年分の“変化”を辿ったツアー『SCIENCE FICTION』
あの美しいピアノの旋律と吐息のようなハミング。「time will tell」のイントロが聴こえてきた途端、声にならない感情が込み上げてきた。それはもう何度も何度も繰り返し聴いてきたあの音でしかなく、それだけで過去に引き戻されるには充分だった。幼少期の記憶が蘇ると同時に、忘れかけていた寂しさや切なさが波のように襲ってくる。きっとあの場にいた観客の多くもまた同じように心揺さぶられていたように思う。会場ではどよめきともいえる歓声と拍手が沸き起こっていた。
9月1日にKアリーナ横浜で開催された『HIKARU UTADA SCIENCE FICTION TOUR 2024』ファイナルは、そんなふうにして始まった。6年ぶりとなる全国ツアーは、宇多田ヒカルにとって初のベストアルバム『SCIENCE FICTION』発売に伴って行われたものとあってデビューから現在までを振り返る内容になっていた。
一瞬にして1998年にタイムスリップした私たちは宇多田と共にこれまでの軌跡を辿っていく。「Letters」、「Wait & See 〜リスク〜」、「In My Room」などまずは彼女がたった10代にして生み出してきた破格の名曲が続く。なかでも「光 (Re-Recording)」〜「traveling (Re-Recording)」の流れは白眉だった。「光」、「For You」-「DISTANCE - m-flo remix-」メドレー、「traveling」と曲に合わせて照明や映像が次々と移り変わっていく。ステージを染め上げる鮮烈な赤、大量に積み上げられた廃れたブラウン管テレビ、夜の高速道路を思わせる激しく点滅するオレンジのライト……するすると世界観が変化していく様はまるで宇宙船に乗って過去を旅しているかのようである。
新たにレコーディングされた「光」と「traveling」は、日常の神秘性を感じさせるリラックスした雰囲気と軽やかさを纏っている。ゆったりとした白いセットアップを着ている宇多田の表情もまた柔らかで、全てのムードが今の自分にはまっていることを実感しているように見えた。そのためか、会場にもアットホームな空気が充満している。機内アナウンスから始まる「DISTANCE - m-flo remix-」もまたこの流れにピッタリだった。
しかしなぜ「For You」だったのだろう。内省を吐露しながら孤独や歌うことそのものについて考える、宇多田の中でも特にシリアスな曲。しかも「光」の直後に。この旅に一瞬暗い影を落とす。思わず不意を突かれたが、と同時にこれは単純なノスタルジーになってしまうことに対する抵抗かもしれないとも感じた。25年という歳月。あれはあれで良かったよねと明るく終われる記憶ばかりじゃない。私たちの過去にはちゃんと悲しみがあったのだと、あまりにもさりげなく訴えかけているのではないだろうか。
宇多田の曲を聴くと、自然と自分の感情と向き合わざるを得なくなる。例えば「Letters」の底から湧き上がる〈ああ〉という唸り声を聴いたとき、「For You」の〈誰かの為じゃなく 自分の為にだけ/優しくなれたらいいのに〉という諦念混じりなその言葉に触れた時、「COLORS」の哀愁を帯びたサビを耳にした時、仕舞い込んでいたはずの感情がぶわあっと溢れ出して止められなくなる。昔を思い出して、あの時私は傷ついていたんだと自覚して、その度まだ心のどこかに泣きじゃくる子供みたいな自分がいるんだなと気づく。少々大袈裟に聞こえるかもしれない。でも確かに、あの歌声には、あの歌詞には、あの曲には、宇多田ヒカルという存在そのものには、そういう力が宿っているのだ。聴き手が奥底で抱える薄暗い感情と手を繋ごうとする、そんな強いポジティビティが。
思えば宇多田はインタビューで「自分がすごくしんどいときに音楽を聴こうとは思わなくて、じゃあ作ろうってなる」「私が自分に必要なメッセージを書いていたから、それをみんなが感じてくれているんだなって思うとすごくうれしいです」と話していた(※1)。自分の曲で過去を振り返るならばただ高揚感に浸るだけではすまないということを、きっと彼女自身もわかっていたのではないだろうか。ならば。ちゃんと過去を見つめ直して、積み重ねてきた悲しみや孤独を慈しみながら、“今”を祝福したい。
だが、そんな優しい時間というのはとても脆く繊細なものの上で成り立っているということを、このライブは見せてくる。場所や時代を駆け巡るような映像、世界で活躍する珠玉のバンドメンバーたちが時折鳴らす歪み。それがやけに現実を表しているようで背筋がぞくっとする瞬間がいくつもあった。宇多田自身はとてもリラックスしているし、観客もそんな彼女を優しく見つめている。穏やかな空間であるはず……なのに何かがおかしい。
特に「Keep Tryin'」。宇多田が「煽ったりするのすごい下手で苦手だったんだけど今すごく楽しくできてて嬉しい! ありがとう!」と嬉しそうに手を横に振る一方で、バックではドドドドド……とおどろおどろしいドラミングが鳴り響き、モニターには騒々しく山々を駆け抜ける様子が映し出される。愛らしい宇多田の後ろに感じるソワソワさせる何か……こ、この状況をどう受け取れば……? 〈どうしてだろうか/少しだけ不安が残ります〉(「traveling」)という気分。けれどその奇妙さが夢と現実の狭間にいるみたいでもあった。私たちには現実があり、この時間には終わりが来る。何かが少しでも崩れてしまえばあっという間に壊れて現実に戻ってしまう。そんな空間の中に私たちはいるということなのかもしれない。
どうやら今回のツアーの演出には宇多田自身もかなり携わっているようだ。夢と現実を同時に感じさせるSF演出が魅惑的なステージになっているが、思えば宇多田ヒカルという存在にもそんなところがある。夢と現実。その両方を見せてくれるアーティストだと思う。
宇多田はその音楽性があまりに凄まじいばかりに、しばしば「天才」とか「神様」とか私たちとは別次元の何かであるかの如く扱われることがあるが、彼女自身はいつも自然体で“普通”だった。“あの”宇多田ヒカルだということを忘れてしまいそうになるほどに。それにいつもハッとさせられる。
他のアーティストのライブを観ていると、こちらの気持ちを代弁するエモーショナルなMCに涙することもあれば、MCを完全に排除した完璧なショーに感動することもある。そこには全てに夢がある。一方で、宇多田の場合は盛り上げ役に回ったりすることは苦手そうでも、それでもライブ中よく観客に話しかける。メンバー紹介だってMCの中で丁寧に一人ひとり紹介していく。コミュニケーションを取ろうとする。何万人という観客からの熱い視線を受け取って少々たどたどしくなったりしながらも。完璧なパフォーマンスとのそのギャップに、夢と現実を感じるのだ。
そうか宇多田ヒカルも私たちと同じ“人”なのだと改めて痛感させられ、母親である彼女の生活に思いを巡らせたくなる。1人の人間が巨大な才能を背負いながらこのステージに立っているという事実。同じ社会を生きる者として安堵し、無性に心強い気持ちになってしまう。その重圧はとても比べ物にならないなんてことはわかっていても。
ちなみにこの日の第一声は「みんなーこんにちはー」。何十年ぶりに再会する友人に声をかけるように慎重に話しかけていた。もしかしたら私たちの方が緊張した面持ちで彼女を見つめていたからかもしれない。