ソニーミュージックグループ社長 村松俊亮氏が初めて明かす、今は亡き“真のライバル”への思い【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 最終回】

評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 最終回

 今から十数年前、48歳という若さでこの世を去った“伝説のA&Rマン”吉田敬さん。吉田さんと長年様々なプロジェクトを共にしてきた黒岩利之氏が筆を執り、同氏の仕事ぶりを関係者への取材をもとに記録していく本連載。最終回となる今回は、ソニー・ミュージックエンタテインメント代表取締役社長CEO村松俊亮氏へのインタビューをお届けする。(編集部)

第10回はこちら

ワーナーミュージック・ジャパンCEO 小林和之氏、継承と発展のレーベル改革【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第10回】

“伝説のA&Rマン”吉田敬さんの仕事ぶりを関係者への取材をもとに記録していく本連載。第10回は、ワーナーミュージック・ジャパンC…

敬さんは宣伝チーム時代に強烈な印象を与えた“不思議な人”

「敬さんのことを思い出してたら、眠れなくなっちゃったんだよ」

 ソニー・ミュージックエンタテインメント代表取締役社長CEO村松俊亮氏は、意外にも温和な表情でそう僕に語りかけた。

 実は、敬さんとともにワーナーミュージックに移籍した僕からしてみると、現ソニーミュージックの代表である村松氏と敬さんの関係に迫るのは、どこかアンタッチャブルなような思いがして気が引けていた。それは2人の若手時代の確執やその後の“宿敵”ともいえるライバル関係など、各所でピリッとするエピソードや噂を聞いていたからだ。

 しかし、書籍『「桜」の追憶 伝説のA&R 吉田敬・伝』が完成し、連載版をどう決着させようかと思い悩んでいた時、藤原俊輔氏(株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントコーポレートSVP/ソニー・ミュージックレーベルズ執行役員専務※第3回連載参照)から、「絶対、取材した方がよい。僕がコーディネートするよ」と背中を押され、思い切ってメールをしてみたところ、すぐに“受諾”の返信をもらえた。

 まるで、武田信玄の話を上杉謙信に聞きに行くような緊張感の中、僕は、SME六番町ビルの役員応接室を訪れた。前身であるCBS・ソニーレコードの創業者であり初代社長の大賀典雄氏が弾いて、当時の所属アーティストとコミュニケーションを図ったというピアノが鎮座する伝統と栄光の部屋だ。

「敬さんは僕の2年先輩なんですよ。僕が1987年に入社して、営業部を経て販売促進部(CBS・ソニーレコードの邦楽宣伝部門)に配属されたのが最初の出会いだった。それまでは接点がなかったし、2年先輩というとみなさん個性豊かで……一志さん(一志順夫氏。元宣伝会議議長※連載第3回、4回参照)、後にX JAPANを手掛ける津田さん(津田直士氏。音楽プロデューサー)やエピックレーベルの営業部門を仕切っていた古賀さん(古賀勝幸氏)、蒔田さん(蒔田亜土氏。洋楽部門で活躍)らがいた。その中で敬さんは当初はあまり目立たない存在だったんですね」

 その頃のCBS・ソニー販売促進部はアイドル班とポップ・ロック(今でいうJ-POP)班に分かれていて、村松氏は敬さんの所属するアイドル班の宣伝チームに異動となった。アイドルといっても全盛の今では信じられないくらいの冬の時代だった。

「当時のアイドルは今のような勢いもなく、どん底といってもよい時期で。一方、ポップ・ロック班には爆風スランプ、プリンセス プリンセス、TUBE、久保田利伸、尾崎豊、浜田省吾など、とんでもなくヒットアーティストがたくさんいて、一方僕らは売り上げもないし、一番のトップアーティストでマッチ(近藤真彦)と南野陽子、新人で宮沢りえが出てくる、そんな時代だった。敬さんは雑誌(紙媒体)担当をしていた。集英社の人気アイドル誌の編集長に最初は可愛がられていたんだけど、当時から敬さんはあの調子でズカズカと土足で編集部に朝夕関係なく入り込んでプロモーションをしていて。編集部員が使う仮眠室で堂々と寝ていたのかな? それが見つかってその編集長に激怒されて。会社の上司にクレームが入った。“不思議な人だなぁ。”それが最初の強烈な印象ですね」

 その直後に、敬さんは福岡営業所に異動となり、九州地区のエリアプロモーションを担うことになる。2人の接点は一度途絶えたが、敬さんが本社に帰還し、テレビプロモーションやタイアップ担当として活躍すると、ほどなくアーティスト担当(以下アー担。アーティストの宣伝戦略を管轄する宣伝マン)の村松氏と媒体担当の敬さんのタッグがみられるようになる。

「その頃、僕らの上長だった塔本さん(塔本一馬氏)の“宣伝マンに席はいらない”という考えのもと、オフィスの個人机が廃止されたんです。円卓をわざわざ発注して、それぞれが自由に荷物や私物を置くという、今でいうフリーアドレスのようなスタイルが導入された。そんな円卓で僕と敬さんの席は隣り合わせで、とにかく僕も敬さんも机の上が異常に汚い。ある日、2人の荷物の境界がぐしゃぐしゃになり、敬さんの隣の先輩の場所に荷物が流れ込んだ。それで先輩にえらく怒られて。敬さんが僕の方を指して“あいつの荷物がこっちに来るからしょうがないじゃないですか!”と(笑)。
 あと、当時2人とも東武東上線沿線に住んでいて、一緒に電車で帰ることがたまにあったんです。僕が先に最寄りの駅で降りると、寂しがり屋なのか、敬さんが用事もないのに一緒に降りてきて駅前の居酒屋でよく一緒に飲みました。で、終電がなくなると“車で送れ!”と言ってきて。“飲んでるんで送れませんよ!”と返すと、“カミさんに送らせればいいだろ”って(苦笑)。まあ楽しく時を過ごしていて、その時はすごく仲が良かった」

共にヒットを目指した若き日のタッグ 徐々に分かれていく明暗

 村松氏は、敬さんと組んだ最初の仕事が印象に残っているという。村松氏がアーティスト担当を務めたREBECCAのボーカルNOKKOのソロで、バンド解散後初となるシングル『人魚』の時だ。敬さんは当時人気絶頂であった内田有紀の主演ドラマ『時をかける少女』(1994年)の主題歌を獲得すべく、アプローチを開始していく。

「敬さんが共同テレビジョン(フジテレビ系列の制作会社)の塩沢さん(塩沢浩二氏。第5回連載参照)にぐいぐいプロモーションしてくれた。主題歌を担当するアーティストがNOKKOに決まった後、なかなか曲が決まらずにやっとの思いで書き下ろしてできた曲が『人魚』だった。当時、敬さんはテレビ局にウォークマンとヘッドフォンを持ち込んでプロデューサーに音を聴かせていた。交渉の前面に立っていたのでアー担の僕より先に『人魚』のデモを手に入れていて。そんな敬さんが、僕に“これ、すげえよ! 絶対売れるな”ってヘッドフォンで聴かせてくれて、2人で喜んだのが思い出としてありますね。その後、僕が古内東子のアー担をしていた時も、ドラマのタイアップを決めてくれて、一緒に取り組んだ記憶がある」

 その時、敬さんが決めたドラマ、読売テレビ制作日本テレビ系『俺たちに気をつけろ。』(1996年、主演:保坂尚輝)は、敬さんらしいユニークな方法でプロモーションをして、古内東子「誰より好きなのに」が挿入歌に選ばれた。

「ある日、靖国通り沿いの雑居ビルにあるピアノバーに行くと、古内東子さんがスタンバイしていて、僕らだけのためにピアノ弾き語りのライブをしてくれた。強烈な記憶ですね」

 そう語るのは諏訪道彦氏(当時:讀賣テレビ放送、現:アスハPP代表取締役)。アニメ『名探偵コナン』の仕掛人として知られる、プロデューサーだ。

「当時、僕は編成にいて、漫画原作もののドラマも担当していた。ドラマ部の藤井さん(藤井裕也氏)と一緒に敬さんに呼ばれて、古内東子さんのライブを見ることになった。感想を直接言うのも、照れくさくなるような近い距離でライブをしてくれて。ある種、脳天を撃ち抜かれるようなショックを受けて、そのまま帰ったと思う」(諏訪氏)

 のちのソニーミュージックとワーナーミュージックの社長が若き日にタッグを組んで、アーティストをヒットさせるという一つの目標に向かっていく。そんな光景がこの頃のソニーミュージックで展開されていたという事実を知り、胸が熱くなる。しかし、やがて2人の辿る道に明暗が分かれていく。敬さんは活躍が認められTプロジェクトを任されるようになり(連載第6回参照)、ミリオンヒットを連発。一方、村松氏は大手芸能事務所に所属する会社のトッププライオリティ・アーティストの制作を担当するようになるが、状況に息詰まり、会社を辞めることも一時考えたという。

「1996年に宣伝から制作に異動したが、任されたアーティストを売るアイデアが全然出てこなかった。そんな時、敬さんに怒られたというか見放されたというか。 “村松は内(会社の内側)を見ている。なんなら内しか見てない”と言われて、グサッと来たことがあるんです。敬さんは外しか見ていないような、外に向かって仕事をする人。外に向いての仕事は苦しい仕事ではある。逆に醍醐味もエキサイティングな面もある仕事なので、“やっぱりそれをやってないよね”ということを言われて、本当にその通りだなと思ったことをすごく強烈に覚えている。その時、何かが僕の中で変わったっていうのはありますね」

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