ワーナーミュージック・ジャパンCEO 小林和之氏、継承と発展のレーベル改革【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第10回】

評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第10回

 今から十数年前、48歳という若さでこの世を去った“伝説のA&Rマン”吉田敬さん。吉田さんと長年様々なプロジェクトを共にしてきた黒岩利之氏が筆を執り、同氏の仕事ぶりを関係者への取材をもとに記録していく本連載。第10回となる今回は、ワーナーミュージック・ジャパンCEO小林和之氏へのインタビューをお届けする。(編集部)

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苦境の中で学んだ、ピークをあえて作らない運営スタイル

ワーナーミュージック・ジャパンCEO小林和之氏(撮影=林将平)
小林和之氏

「敬との接点はほとんどなかった。しかし、2002年にエピックレコードジャパンで指揮を執ることになった時、敬が率いていたデフスターレコーズは物凄い勢いで、まさに彗星のごとく現れた新しい組織体として、バーン! とヒットを出し始めていた。
 当時、ソニーミュージック乃木坂ビルの守衛さんのいるスタジオ側の入口から、体を折り曲げるようにしてエレベーターに乗る敬の姿を目撃したことがあった。なぜかすごく輝いて見えたのを覚えている。正直、敬が羨ましかった。
 その後の自分の人生が、そんな敬と同じくソニーミュージックからワーナーミュージックに移ることになるとは、その時は思いもしなかった」

 今年、就任10周年を迎え、歴代のワーナーミュージック・ジャパンCEOとしての最高在任記録更新し続ける小林和之氏は、僕の姿を見るなり、そう話し始めた。

 “KAZさん”の愛称で親しまれる小林氏(以下、KAZさんで統一)は、2014年にワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長兼CEOに就任した。敬さんと同じ、関西出身。ソニーミュージックの分社化したレーベルの社長を経て、ワーナーミュージックのトップへ、というキャリアも一緒だ。しかし、関西出身であることは普段出さず、人を寄せつけないオーラを放っていた敬さんとは対照的に、KAZさんは関西弁をフランクに駆使し、社員との距離感をあっという間に縮めていく。その親しみやすさは、つい“陽キャ”と表現してしまいたくなるほど。私服をカジュアルに着こなす立ち振る舞いもおしゃれで華やかだ。

  “売れる楽曲”に対する先見性や鋭さは、ある意味、敬さんと同じだが、マーケティングサイドからアプローチする敬さんとは異なり、ミュージシャン出身ならではの直感力ともいえる嗅覚で売れるアーティストを見定め、売るための手段を繰り出していくのがKAZさん流。竹内まりやの「駅」を聴いたKAZさんが、“これは有線で仕掛けるべきだ!”と主張し、その通りにしたら大ヒットしたという逸話も僕らの間では有名な話だ。

 僕は本連載「伝説のA&Rマン 吉田敬」を掲載するにあたり、ワーナーミュージック・ジャパンの現代表であるKAZさんにも話を聞きたいと思った。KAZさんは敬さんとは直接の接点がないはずなのに、どこかシンパシーを感じて、今のワーナーミュージックを仕切っているのではないかーーそんな予感が働いて取材を申し込むと、KAZさんは快諾してくれた。そして、ここに今のワーナーミュージックの代表が20年前に社長に就任した敬さんを語るインタビューが実現したのだ。

「(敬さんと同期の)一志(順夫氏、元ソニーミュージック宣伝会議議長)を通じて、敬のことは意識していた。デフスター時代に敬と一志が仕掛けてブレイクしたCHEMISTRYは、今思うとオーディション番組出身の元祖、はしりのような存在。その先見性に感心したこともある。
 僕は当時、エピックの中の小坂班(小坂洋二氏。佐野元春、TM NETWORK、渡辺美里、岡村靖幸等を手掛けた)でも目黒班(目黒育郎氏。シャネルズ、DREAMS COME TRUE、JUDY AND MARY等を手掛けた)でもない第3グループという名の別部隊を任されていて、渋谷にスタジオ付きのオフィスを独自に構え、ヒットも出していた。ただ、宣伝費をかなり大胆に使っていたから、当時の会社からは経営能力がないとみられていた節もある(笑)。Tプロジェクト(主にTUBEのプロジェクトと新人開発を行った部署)を仕切って別部隊を率いていた敬もソニーミュージックの中ではアウトロー的な存在で、その目線から当時のトップレーベルであるソニーレコーズやエピックを見ていたんだと思う。
 僕がそこで味わったのは、レーベルは頂点を迎えればやがて落ちてくるということ。僕はエピックの良い時も悪い時も知っているので、その落ち方のカーブをどう緩やかにするかもまた大事なレーベル運営だとその時に学んだ。
 一方、敬はずーっとピークのままデフスターを作り、ワーナーミュージックでも全盛期を迎えた。レーベルの調子が一時的に悪くなったり勢いが落ち着いたりした時には鈍感力が大事だったりもする。彼はその点、挫折を味わってない分、より繊細だったような気がした」

 KAZさんは、デフスターを皮切りに分社化していく各レーベルの中で、2002年10月にエピックレコードジャパンの社長を任された。当時のエピックはDREAMS COME TRUEの移籍や、JUDY AND MARYの解散などを経て、レーベルを代表するビッグアーティストの売り上げも落ち着き、単発的な新人ヒットはあったものの、大きな起爆剤を必要としている状態だった。

「僕が引き受けた時のエピックはボロボロだった。中期に貢献したアーティストたちの売上の伸長もひと段落していく中、何人もの優秀なスタッフの人的リソースの大半がそちらに割かれている現状にメスを入れなければと思った。エピックの先輩方にはお叱りを受けたけど、アーティストとの契約見直しも躊躇なくした。一刻も早く新人でヒットを出す体制にシフトチェンジしていった」

 敬さんがワーナーミュージックの社長に就任する2003年頃から、エピックでのKAZさんの改革が結果につながっていく。Crystal Kayのスマッシュヒットから状況が変わり、アンジェラ・アキ、Aqua Timez、いきものがかりとヒットが連鎖しだした。

Aqua Timez 『決意の朝に PVフル』
アンジェラ・アキ 『手紙~拝啓 十五の君へ~』
いきものがかり 『ブルーバード』Music Video

「当時、敬とはMステ(『ミュージックステーション』)の現場などで顔を合わせることが多かった。彼は後輩だし、僕はソニーミュージックのプロパーでもないんだけど、シンパシーみたいなものをお互い感じていたんだと思う。ソニーミュージックから外に出るって、僕の時もそうだったけど、高い飛び込み台から飛び込むような勇気がいると思うんですよ。そんな奴なかなかいなかったから感心したし、新しい時代を築くと思った」

 KAZさんのエピックでのやり方で当時の僕が特徴的だと思ったのは、ブレイクしたアーティストの“ピークを作らない”がスタッフ達の合言葉だったことだ。

「ピークは絶対作るな。ゆるーく行け、ゆるーく行けとよく言っていた。ピークを作ると落ちるのも早い。幻想かもしれないけど、ミリオンヒットを求めるのではなく、20万ぐらいのヒットをコンスタントに出せるアーティストを3組ぐらい抱えることを理想としていた」

 この頃から人事異動で、デフスターのプロモーションスタッフもエピックに合流。KAZさんの制作マインドと、タカシイズムを継承するデフスター組との最初のコラボレーションが実現していく。KAZさんの手腕は注目され、ソニーミュージックの快進撃のエンジンの一つとなった。KAZさんは、レーベル再統合のタイミングでは、デフスターやアリオラジャパンの運営もみるようになる。

「僕がみるようになった時のデフスターは、まさにそのカーブが落ちてきた時期で。敬がいた今までの体制が崩れたショックをそのまま引きずっているように感じた。残されたデフスターのメンバーにとっては僕のやり方は異文化に映っただろうし、ストレートに厳しいこともいっぱい言わせてもらったので、苦労もしたと思う。でもチャレンジには意味があり、だからこそ今の彼らの活躍があるのだと思う」

ワーナーミュージック・ジャパンCEO小林和之氏(撮影=林将平)

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