コブクロに影響を与えたヒットへの並々ならぬ熱意 恩師から教わったJ-POPの厳しさ【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第7回】

評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第7回

 今から十数年前、48歳という若さでこの世を去った“伝説のA&Rマン”吉田敬さん。吉田さんと長年様々なプロジェクトを共にしてきた黒岩利之氏が筆を執り、同氏の仕事ぶりを関係者への取材をもとに記録していく本連載。第7回となる今回は、コブクロの黒田俊介と小渕健太郎へのインタビューが実現した。彼らが吉田さんや当時のレーベルスタッフとともに信頼関係を築きながら生み出してきた数々のヒット曲の裏側について、貴重な話を聞くことができた。(編集部)

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コブクロと敬さんの出会い〜「ここにしか咲かない花」をきっかけに深めた信頼

 今年もこの季節がやってきた。例年に比べるとまだまだ暑い日は続くが、気持ち悪いぐらい澄んだ秋の青空を見上げると、どうしても13年前のあの日のことを思い出す。
 そんな、10月に入ったある日、僕は新幹線で大阪に向かった。敬さんが、ワーナーミュージック・ジャパンの社長に就任して初めて全身全霊をかけて売り出し、ブレイクに導いたアーティスト、コブクロ。彼らが結成25周年を迎える記念すべきツアーの大阪公演の前の貴重な時間をこのインタビューに割いてくれることになったのだ。敬さんが、初めてコブクロを意識したのも、また新幹線の中だった。

 大阪出身の黒田俊介と宮崎出身の小渕健太郎によるデュオ、コブクロは大阪のストリートでライブ活動を始め、インディーズでリリースを開始。2001年にワーナーミュージック・ジャパンよりメジャーデビューし、シングル『YELL~エール~/Bell』は、当時会長だった稲垣博司氏自ら大号令を社内にかけ、20万枚を超えるスマッシュヒットを記録した。僕らが合流した2003年はシングルセールスこそ落ち着いていたものの、コンサートの動員は西では大阪城ホール、東では渋谷公会堂(現:LINE CUBE SHIBUYA)をソールドアウト。西高東低の傾向ではあったが、コアファンにしっかり支えられた活動を行っていた。

「正直、僕は半信半疑だった」

 黒田俊介は、敬さんがワーナーミュージック・ジャパンに来た当時の素直な印象を語ってくれた。

「吉田社長がワーナーに来た2003年ぐらいって、コブクロにとっては激動の時期で、(レコード会社の担当者も)リリースごとにどんどん変わるし、ちょっと辟易としていました。すごい人、剛腕な人が来たっていう噂を聞いてはいたんですが」

 そんな中、敬さんは、“まずは、事務所の社長に挨拶を”ということで、新大阪行きの新幹線に乗り込んだ。コブクロの事務所は、彼らをストリートで発見して以来面倒を見ている和歌山の実業家・坂田美之助氏(以下、ミノスケ社長)が設立した、ミノスケオフィスコブクロ。大阪にあるワーナーミュージック・ジャパン西日本オフィスで行われるコブクロスタッフ会議に参加するミノスケ社長に会いに、そこまで出向くということが大事だった。
 敬さんは新幹線の中で、デビュー当初から彼らの魅力を認め、直訴して担当になったという熱心な制作マンから渡されたCD-Rをおもむろに取り出し、ウォークマンで聴き始めた。彼らの代表曲をインディーズ時代のものを中心に、丁寧にまとめた試聴用の音源だった。車窓を眺めながら1曲目を再生した敬さんの心は一気に鷲掴みされたという。

〈名もない花には名前を付けましょう この世に一つしかない/冬の寒さに打ちひしがれないように 誰かの声でまた起き上がれるように〉

 思わず涙が流れた。
 敬さんは、この「桜」という楽曲が彼らが出会って初めて作られた曲であり、メジャーデビューシングル曲を「YELL~エール~」にするか、「桜」にするかで最後まで迷ったと聞く。そして、“コブクロは僕が売ります”と宣言したのもこの会議だった。敬さんの中に閃くものがあったのだろうと思う。それは、ワーナーミュージック・ジャパンに来て初めての閃きだった。

 小渕健太郎は敬さんに対して、黒田とは対照的な印象を持ったようだ。

「ちゃんと音楽の話ができる人が社長で来たという印象を持ちました。クリエイティブを直々にかじ取りしている。ちゃんとイメージがあって、その届け方を明確にもってらっしゃるので、すごく刺激も受けたし、そのハードルを越えなければいけないんだと思いました」

 敬さんのコブクロのプロモーションには、どんどん熱がこもっていった。ワーナーミュージック・ジャパンの社長就任以来、新たなアーティストのブレイクが達成できていない中で、自らが陣頭指揮を執りヒットを作るということを、コブクロで実践しようと決意したのだと思う。そして、ついに2005年4月スタートの日本テレビ系ドラマ『瑠璃の島』(主演:成海璃子)で主題歌を獲得することとなる。メンバーは実際にドラマの舞台となった沖縄の離島・鳩間島に赴き、楽曲を書き下ろす。

「主題歌が決まってからドラマのプロデューサーと引き合わされて。その場で是非、鳩間島に来てくださいとお誘いがあったんです。さすがにそれはスケジュール的に厳しいやろと思ったら……小渕が“是非現地見たいです!”って。マジかよと(苦笑)」(黒田)

 本来、鳩間島には石垣島まで飛行機で行き、その後フェリーで45分という長旅。島にホテルはなく、民宿も温水の出が危ういという過酷な場所だった。

「船の定期便がなくて、漁船で行ったんですよ! 漁船って言っても、ちゃんとした漁船とは違いますよ! イカ釣り船にエンジンが付いてるような(笑)」(黒田)

「黒田が右に乗ってたら、“(船が)右に曲がるからもうちょっとこっち!”って言われて、乗る位置を微調整したりしました(笑)」(小渕)

 小渕が島で撮影した1枚の写真。そこに映っていたランタナという花。そこから着想を得た渾身の曲が主題歌となった「ここにしか咲かない花」である。苦難の旅の末、できた曲に待っていたのは敬さんからのダメ出しだった。

「吉田社長の表情が聴いた瞬間パッと曇って。あんなダメ出しをされたことが初めてだったし、まだその時は信頼関係もできてなかったので、全然受け入れられなかった」(黒田)

「今と1コーラス目のサビと構成が全然違ったんですよ。最後のサビの形は今の形なのですが、デモは少しずつメロディを盛り上げて最後にドカーンと盛り上がる構成になっていて。大きい波は最後だけでいいと思っていたのですが、1コーラス目にも2コーラス目にもサビの盛り上がりがほしいと」(小渕)

 2人は、敬さんからの修正要請を断った。しかし、敬さんは諦めなかった。後日、2人を訪ねて“やっぱり何とかしてくれ”と直談判。2人が何度断っても彼らの元を訪ねて“とにかくこっちの方がよい、絶対こっちの方がよくなるから”と譲らなかったという。

「吉田社長の意見を受け入れて、構成を修正しながらできあがった曲は、ジープにフェラーリのエンジンを積んで羽が生えているかのようなコテコテの曲やなーって一瞬思ったんです。“これは違う。曲というのは憂いがあるものなんだ”と。でもその曲を聴かせたら、そこにいた全員が拍手喝采で。“これでいこう!”となった」(小渕)

「僕ら、吉田社長とそうやってお仕事をさせてもらうまで紆余曲折あって、セルフプロデュースという道を選んで、“これから自分らで道を切り開いていくんや”っていう時に、いきなり方向修正されたんですよね。今までにないようなやり方を見て“この人何者なんやろ”って。正直、僕は『ここにしか咲かない花』でのやり取り一発で、目が覚めましたね。そんな人おるんやなって思いました」(黒田)

 こうしてコブクロが初めてドラマ主題歌として楽曲提供した「ここにしか咲かない花」は敬さん自らが主導する形で書き下ろされた。ドラマの方も、これが初主演となる当時12歳の成海璃子の鮮烈な演技ととともに話題となり、主題歌にも波及。スマッシュヒットとなった。

コブクロ「ここにしか咲かない花」

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