くじら、アルバム『野菜室』で書いた“成熟した一人暮らし” 言語化し続ける人生の大切さ
くじらから、アルバム『野菜室』が届けられた。『生活を愛せるようになるまで』から1年3カ月ぶりとなる今作を制作するに至るまでに加え、“生活を愛せるようになってから”の赤裸々な心情や、23歳という“大人”の枠に入る年齢への実感、言語化する大切さなど、今のくじらの目線からじっくりと語ってもらった。(編集部)
「生活を愛せるようになった」のはゴールじゃなかったと気づいた
――『生活を愛せるようになるまで』以来1年3カ月ぶり2作目のアルバムが完成しました。『生活を愛せるようになるまで』を制作し発表したことで、初めて経験したこともたくさんあったと思いますが、この1年3カ月間をどのように過ごしていましたか?
くじら:『生活を愛せるようになるまで』を作ってからは、今みたいにインタビューをしていただいたり、ライブをやったり、メジャーレーベルでCDをリリースしたらやるようなお仕事をたくさん経験させていただきました。そういう活動が一段落してからは「ふぅ……この先どうしようかな」という状態になって。今年の前半は「多分、次のアルバムでは“生活を愛せるようになったけど……”という話を書いていくことになるんだろうな」と思いながら過ごしつつ、結構模索していたかもしれないです。
――模索していたんですね。
くじら:はい。音楽以外でもちょっといろいろやってみようと思って、TikTokに上げるための動画を作ってみたり、他のアーティストの曲をカバーしてみたりしていました。だけど後半から吹っ切れて「やっぱりちゃんと音楽をやろう」と思って。もちろん音楽はずっと作っていたけど、「余計なことはせず、自分は音楽をやればいいんだ」と改めて思いました。そうやって泥のような日常を進む中で、自分がこの1年で思っていたことが砂金のようにたまっていき、アルバムの形が見えてきたような感覚です。「私たち問いを抱えて」ができた時、「これがアルバムのタイトル曲になるんだろうな」と思ったんですけど、「なんかもうちょっとある気がする」と待ってみたら「野菜室」ができて。「これだ!」と思いました。
――野菜室というモチーフは非常にユニークですよね。発想はどこから?
くじら:『生活を愛せるようになるまで』のあとは、“成熟した一人暮らし”を書くことになるだろうと思ったんです。そこから「実家にあって、一人暮らしを始めた時にはなくて、 一人暮らしが進んでいくとまた手に入るもの、なーんだ?」と考えていったところ、「野菜室だな」と。野菜室を手に入れて、張り切って野菜をいっぱい買ってきても、なかなか使わない野菜が奥の方で腐ってしまったりするじゃないですか。野菜室を開ける度にそういう野菜が目に入るけど、触るのも嫌だから、なかなか捨てられない。とはいえ、周りの野菜にも悪影響だし、容量も食うし、そこに置いておいてもいいことは一つもない。それって20代以降の人間関係とか、人の脳内と似ているなと思ったんです。僕自身、日々新しい疑問が自分の頭の中に入ってきては、答えを見つけて、消化していっている感覚があるけど、小っちゃい頃からずっと不思議に思っている大きな問い――「自分はなぜ生まれてきたんだろう?」「愛って何だろう?」というようなことはずっと解消されていない。それに、いろいろな新しい問いに向き合うたび、そういう大きな問いにもさらっと触れることになるから、結局ずっとそれについて考えさせられている感じがある。そういうプロセスが野菜室みたいだなと思いました。
――〈さみしくない生活をしよう/鮮度が取り柄じゃなくなる前に〉というフレーズは、どういうイメージで書きましたか?
くじら:この部分は書いていったらそのまま出てきたもので、「なんて怖いことを言うんだ」と自分でも思いました。15歳で音楽を始めて、18~19歳でくじらとして曲を書き始めて、今23歳なんですけど、“大人”の枠に入る年齢に差し掛かりつつあるなと実感しているんですよ。こないだ仕事で「大人っぽい」をテーマに歌詞を書いたんですけど、「こういう感じですか?」「もうちょっと下の年齢のイメージです」というやりとりが発生して。その時「あ、もしかして23歳って大人として捉えなきゃいけない年齢なのか」と思って、「うっ……」となってしまって。
――30歳、40歳になっていくことは怖いですか?
くじら:抗おうという気持ちはないから恐怖ではないと思うんですけど、やっぱり不安ではありますね。人間って少しずつ鮮度が失われていくじゃないですか。それ自体が悪いことだとは思わないけど、何かを失っていくことはやっぱり寂しいなと思ってしまうし、「感性が死んでいくんじゃないか」とか「それ以前に、まずちゃんと生きていけているんだろうか?」とか「嫌なおじさんになっていたらやだなー」みたいな気持ちもあるし。さみしくない生活をしようよって、自分にも、みんなにも言いたいです。
――改めて振り返ると、『生活を愛せるようになるまで』は、音楽活動を続ける中で自分が暮らしていくためのお金を稼げるようになり、自分の生活を初めて好きだと思えた時の喜び、嬉しさを記録したアルバムでした。そして次は「生活を愛せるようになったけど……」というアルバムになりそうだと思った、という話でしたね。
くじら:はい。『生活を愛せるようになるまで』を作ったことですごく大きな階段を一段上れたけど、上った先で景色が劇的に変わったわけではなかったんです。自分の抜けているところとか、人間関係が苦手だということはやっぱり変わらなかった。つまり、「生活を愛せるようになった! やったー! ゴールだ!」と思っていたけど、全然ゴールじゃなかったんだなと思って。
――「ゴールじゃなかった」と気づいたタイミングがあったんでしょうか?
くじら:というよりは、その事実から目を逸らしていただけで、ずっと薄々勘づいていたんでしょうね。「ゴールじゃなかった」という事実を見ないために、映像を作ってみたり、音楽以外のことに手を出していたのが今年の前半だったのかなと、今話していて思いました。だけど新しい物事に対する自分の好奇心やエネルギーを一旦出し尽くした時に、スクッと立ち上がって、「よし、次に行こう」と思えました。だからこのアルバムには、まだ見ないふりをしていた時期に書いた曲と、「ゴールじゃなかったよ」という事実にきちんと触れて向き合いながら書いた曲が半々くらいのバランスで入っているんですよね。全曲身に覚えのある感情だし、「この人間からできたアルバムだな」と思います。
――最初は見ないふりをしていたのも、向き合おうと決めたタイミングで「よし」と改めて覚悟したのも、「ゴールじゃなかった」という事実に向き合うにはカロリーが必要だと分かっていたからこそなんでしょうね。
くじら:テスト前に部屋を掃除したくなるのは勉強が嫌だからだと、よく言うじゃないですか。自分の場合は、あらかじめ部屋の掃除をしたり、スマホを棚の裏に投げたり、逃げ道を全部なくしてから勉強をスタートさせる癖があるんです。多分、今年の前半にやっていたことは、逃げ道をなくすための作業だったんだろうなと。
「続・生活」は素直に書くことができた
――「ゴールじゃないかも」という事実に向き合い始めてから、最初に書いたのはどの曲ですか?
くじら:「続・生活」ですね。これは明確に『生活を愛せるようになるまで』の続きの曲です。笹川真生さんの新曲がすごくよくて、「自分はこうはなれない」と思ったんですよ。一応自分でも書いてみようとするんですけど、「できた」「全然違うわ」の繰り返し。で、曲作りの合間とかに友達のインスタを見ていたらみんな楽しそうに生活しているし、洗濯機を開けたらなんかパーカーの紐が抜けてるし……いろいろなことが重なって「俺、何も変わってないじゃん」「生活を愛せるようになるとか、そういう話じゃないんだな」と思ったんですよね。「一旦今は生活がよくならなくてもいいや」「追々なんとかなるだろう」と思いつつ、「そうだ、曲だ!」って、叫ぶように、すごく素直に書くことができました。特に落ちサビが気に入っています。
――〈生活の「活」ってさ、ふらっといなくなって/屍のように生きるだけの今日みたいになってさ/うだうだはなしていても/根からの解決にはならんけど、/なんだかいける気がして生活に戻る〉という部分ですね。
くじら:昔からずっと、生産性のない時間がすごく苦手で。友達とダラダラ喋っている時も、喋ること自体は好きなのに、すぐに「将来どうしよう」と不安になってしまって、「俺は今、何をやっているんだろう」という気持ちになってしまうんです。だけど、屍のように生きているうちに抜け落ちてしまう生活の「活」の部分は、こういう時間があることによって初めて取り戻せるものなんじゃないかと。そう思ったら、すごく腑に落ちました。改めて歌詞にすると「そりゃそうだ」という感じの内容ですけど、自分にとってはなかなかの発明で、これを言うのに23年かかったんです。
――そして〈笑って無理矢理強く濁すよりも/わかんないことはわかんないでいいって/言い聞かせてる〉と締め括っている。「生活を愛せた=ゴールだと思いきや、違った」「そもそも生活を愛せる日が来るのか分からない」という状態で、何に希望を見出していくのかをこの曲では歌っているわけだけど、悩みながら生きている状態でもいいんじゃないかと素直に思えたとは、頼もしいですね。
くじら:確かに。4年前に書いた「ねむるまち」という曲でも〈わかんないことはわかんないよ〉と言っているんですよ。あの時は嘆きだったんですが、今は「分からないと思っている自分をしっかり受け止めようぜ」という歌詞になっているので、精神的にはどんどんタフになっているのかもしれません。昔の自分の写真やインスタのアーカイブを見ると、「この人、よく今も生きているな!?」と思うんですよ。何もかもが分からない状態だけど、やりたいことはあって、だけど社会性はなくて……それでも、ちゃんと生きているんだなって。そういう過去の自分に対して「大丈夫」と言ってあげたい気持ちもあります。「わかんないことをわかんない状態で進んでいくのはめっちゃつらいけど、合っているから、行け!」って。それに、いつかの自分の背中を押せるような曲になったんじゃないかと。自分が歌詞に書いている言葉って、靄が晴れて、その言葉がやってきたほんの一瞬にバッと捕まえないと、すぐに見えなくなってしまう種類のものなんです。解像度の高い言葉を掴むには、もちろんタイミングが大事だし、その時々の精神状態も必要。落ち込んでいる時は、本当は持っているはずの答えも見えなくなっちゃうけど、そういう時に自分の曲を聴くと「うんうん、そうだよね」と思えます。今後また落ち込むこともあるだろうけど、この曲で歌っていることを一度自分の回答として得ている、ということはすごく大きいです。