【浜田麻里 40周年インタビュー】第3弾:初のレーベル移籍&長年にわたるライブ活動休止に至った背景とは? 世界的な活動の裏で抱えた“理想の環境とのギャップ”

浜田麻里 40周年インタビュー 第3弾

 日本におけるヘヴィメタルシンガーのパイオニアである浜田麻里。2023年にデビュー40周年を迎える彼女は、今も最前線でその圧倒的なハイトーンボーカルを響かせ続けている。リアルサウンドでは「浜田麻里 デビュー40周年特集」と題して、全6回の連載インタビューを展開中。幅広い音楽性の根源や制作拠点の変遷など、40年間を振り返って、ターニングポイントとなった出会いやライブ、各アルバムの制作秘話から、活動に対する赤裸々な苦悩・葛藤まで、貴重なエピソードも交えながら存分に語ってもらった。第3回は、レコード会社の移籍を経て、長年にわたるライブ活動休止に至るなど、ヒットシングル誕生後にも関わらずさまざまな困難に直面し、乗り越えていった1990年~1995年ごろまでを振り返る。(編集部)

浜田麻里 デビュー40周年特集

2023年にデビュー40周年を迎える浜田麻里。日本におけるヘヴィメタルシンガーのパイオニアである彼女は、今も最前線で圧倒的なハイ…

MCAビクターへ、邦楽第一号アーティストとしての移籍事情

――前回は『COLORS』(1990年9月)の頃までのお話をしていただきましたが、この辺りからまた歴史が動いていくことになりますね。

浜田麻里(以下、浜田):はい。とても大きく動きました。制作に関しては、サウンドプロデューサーがマイク・クリンクからグレッグ・エドワードへと代わり、アルバムだけでなくシングルヒットがいくつも出て意気揚々でした。ビジネスとしてもすごくいい時代に入っていった感じですよね。ファンの皆さんのおかげです。ライブも武道館公演を含む大規模ツアーが毎年の恒例となり、そんな時代は5年ほど続いたと思います。『COLORS』リリース時のライブ会場は、武道館より少し大きい代々木オリンピックプール(現在の国立代々木競技場 第一体育館)でしたね。

――ええ。ただ、『COLORS』のリリースに伴う活動を経て、デビュー時から在籍したビクターエンタテインメントを離れることになり、MCAビクター(アメリカのMCAレコードの日本での業務を行うために新設された合弁会社)に移籍することになりました。ここは一つの大きな転機ですよね。

浜田:前回もお話をしましたけど、どうしても初期の事務所から逃げたくて、そのときにはビクターに(浜田麻里の事務所として)子会社を作っていただく形で助けていただいたんですけれども、人間ってお互いに慣れていくものなんでしょうか。その状況が普通になってしまうと、だんだんぬるくなってきたり、すごく嫌な言い方をするとしたら「ビクター内のアーティストなのだから」といいように使われてしまったと感じる出来事が増えていきました。何か具体的なエピソードを正直にお話ししないと、伝わらないかもしれませんので、現在所属しているレコード会社のことにはなりますけど、ビクターとのことを最初にお話ししますね。もちろん今のビクターに当時のことを知る人は誰もいなくて、すでに世代は様変わりしています。

 私は独立独歩型で、大手事務所に所属するタイプではないんです。日々のお仕事の選択をどなたかに全て委ねることを良しとしないというか。よく言えば自立心旺盛なんですが、周りからしてみたら、なんの後ろ盾もない一個人でした。特に多くを高望みしすぎることもなく、人と問題を起こすばかりのアーティスト系の人格でもないんですね。傍から見たら、女一人で頼りなく見えたと思います。ビクター内に私の個人事務所を立ち上げていただけるほど恵まれていた反面、アーティストとして一目置かれるには、まだ若すぎました。レコード会社の男性陣はみんな年上だったり目上の方で。事務所の最初の社長で、目をかけてくださった部長さんはすでに退職されていました。やがて、立て続けにシングルやアルバムがヒットしたため、私はビクターの稼ぎ頭になりました。特別扱いしてほしいわけではなかったんですけど、子会社の頼りない女性シンガー、という植えつけられたイメージを、なかなか払拭できなかったんだと思います。

――なるほど……。

浜田:ある日、帝国ホテルで行われたビクターのヒット賞の授賞式に出席しました。私はその年の売り上げ1位だったんです。ロック系のアーティストは男女問わず、ほとんど欠席なのはいつものことですが、私はどんなに多忙でも必ず出席しなくてはならない立場でした。他の所属アーティストさんたちにお会いできる機会でもありましたし、やっと一番になれたし、それなりに楽しもうと、少しおめかしして出席しました。

 森進一さんの後ろの席で、隣は(松本)伊代ちゃんでした。司会者の常務取締役の方が皆さんのお名前と受賞曲を読み上げていき、壇上で軽くご挨拶をする流れでした。なのに、いつまで経っても自分の名前は呼ばれませんでした。伊代ちゃんが「麻里さん呼ばれてないよね?」と話しかけてくれたのが救いでした。私は忘れられてしまったのです(笑)。そういうときばかりは、普段から三枚目な感じで、「あれ、俺は? 呼ばれてないよ〜」なんて、おどけられる人たちがとても羨ましいと思いました。実際の私は、森進一さんの綺麗な襟足をジーっと見つめることしかできませんでした(笑)。

 『COLORS』のレコーディング中、いや、それ以前からなんですが、グレッグとはどうしてもぶつかってしまい、かなり現場は大変だったんです。根は優しいところもあって決して嫌いではなかったし、ある意味では仲も良かったんですけど、彼のミキシングに対して、私が納得できない部分を話してリクエストすると、途端に機嫌が悪くなることが多くて。アルバム終盤ともなると必ずぶつかってしまう、そんな制作過程でした。それも彼が故人となった今となっては懐かしく、楽しくすら感じる思い出なんですけどね。

――そうでしたか。

浜田:そういう揉め事自体は、良い作品に仕上げるために当たり前に起こることと私は感じていましたが、グレッグは一度機嫌が悪くなるとプイッとどこかに行ってしまったりして、レコーディング期間のリミットが迫る中、焦りが募りました。ニューヨークでのMV撮影のため一度中断して、またロサンゼルスにとんぼ返りしました。ビクターからも「早く納品を」と急かされていましたし、すでに全国をくまなく廻るツアースケジュールも決定していたんです。しっかりと迅速に仕上げたくて、私も意見が強くなり、またそれが揉め事に拍車をかけました。でも結局、グレッグは最後はリクエストに応えてくれるんですよ(笑)。そこに彼の意識を持って行くまでが大変なんです。

 そんなこんなで、本当はお互いを認めていて感謝もしているのに、グレッグとはなんとなくスッキリしない気まずい雰囲気で、仲直りをしないまま、レコーディングを終えて帰国しました。それもこれも、ギリギリに迫ったアルバム納品日に間に合わせるためでした。そしてリリース日を迎えてすぐにツアーという予定だったんですね。けれど帰国後に伝えられたのは、アルバムのリリースが2カ月延期になったという情報でした。理由はビクターの大事なアーティストのリリース日を優先するためということで……張り詰めていた心がまた崩れていきました。ツアーも、アルバムリリースを迎える前にスタートしなくてはなりませんでしたので。『Return To Myself』(1989年6月)大ヒット後の大事なアルバムリリースでしたが、なんとなく『COLORS』は、ビッグアーティストの影に隠れてしまったんです。そんな私の心の揺れを見透かすかのように、周りにはレーベル移籍を勧めてくる人たちが増えていきました。私もいつしか、もう移籍したいと思うようになっていったんです。

――なぜMCAビクターだったんですか? 当時のシングル/アルバムのセールス実績を考えれば、移籍したいと言えば、手を挙げるレコード会社はたくさんあったと思うんです。

浜田:実は、私が今でも尊敬している当時のソニーミュージック系のエグゼクティブの方にお誘いいただき、本当はそちらのレーベルに移籍するつもりでした。けど、時を同じくして新しく発足したMCAへの、条件の良い移籍話が持ち上がりました。ビクターが私を引き止めるためです。悩んだ末、海外リリースの門戸も持つ、MCAビクターの“邦楽第一号アーティスト”という立場を選びました。どこか私も、最初の勢いはいいんだけど、最後はホロってなっちゃうようなところもあって(笑)。一応、私と当時の事務所社長が、ビクターが持っていた個人事務所の株を買い戻して、マネジメント的にも同時にビクターから独立をする形になりました。

――その判断をしたのは、『COLORS』を制作した後だったんですね?

浜田:はい、そうです。ツアーを全うしながら、いつしか決心してました。大規模ツアーで多くのファンの皆さんと時間を共にしている最中でしたね。

――移籍第1弾のアルバム『TOMORROW』(1991年10月)は、どんな作品にしたいと考えていたのでしょう? 移籍という環境の変化も関係してくるかもしれませんが。

『TOMORROW』

浜田:『COLORS』から『TOMORROW』へというのは、まだグレッグと仕事をしていましたので、空気はそんなには変わってないですね。ただ、MCAビクターの邦楽最初のアルバムということで、やっぱり、必ずヒット作を作らないといけないっていうプレッシャーもありました。タイアップの話もいくつかいただいていましたし、自分が当時やるべきと思った、日本で活躍するアクティブな女性ロックシンガーとしての理想形を世の中に提示していこうと本気で考えました。それを求めつつ、レコード会社にも還元しなきゃいけないっていう、その両方の合間を縫ったような心持ちで制作はしたと思います。でも、それがイコール、万人受けするものを作ろうとする意識にはならず、あくまでも新しいアーティストイメージを持ちたいと考えて、自分の信じた方向に進んだだけです。参加ミュージシャンはギターのスティーヴ・ルカサーやキーボードのランディ・カーバーなど、素晴らしい演奏をしてくれましたし、結果として、私と同系統の女性シンガーがたくさん生まれてくる状況に拍車を掛けることができたと思います。それはもちろん想定内のことでしたが、やっとのこと、この辺りでデビュー当時に思い描いた、シーンを引っ張る自分になることができたという実感がありました。

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