【浜田麻里 40周年インタビュー】第3弾:初のレーベル移籍&長年にわたるライブ活動休止に至った背景とは? 世界的な活動の裏で抱えた“理想の環境とのギャップ”
ライブ活動休止に拍車をかけた複合的な要因
――『TOMORROW』のツアー自体は楽しかったわけですよね。その次のツアーなのに、ガラリと状況が変わっていた。
浜田:はい。自分の何かがそういうことを引き起こしたのかもしれないですし、いつも自分が正しいと言うつもりはないです。ただ、嘘偽りのない感触としては、「どうして人ってこんなに変わっちゃうんだろう」という思いでした。スタッフ同士の仲がすごく悪くて、その悪口を始終聞かされたりもしますし、何か思い違いをしてPAモニターの人が私に反抗心を持っていたり。さっき話したマーク・ターナーの件でも、権利問題も含めて日本のミュージシャンが豹変する感じとか……。小さな権利でも、相当の収益を生む状況が人間を狂わせていく、自分の中ではそう理解するしかありませんでした。どれが一番大変だったのか、何がライブをやらなくなった一番の理由なのか、わからないぐらいいろんなことが起きましたね。そういうことすべてに疲れ切ってしまったんだと思うんです。はっきり言うと、私のメンタルの反逆、反乱でした。
あとは自分が忙しかったというのも大きいんですよ。今みたいに、自分がすべてに目を通して把握できればよかったんですけど、あの頃はバンドに問題が起きたときも、私はずっとヨーロッパにいて、アジアにも行っていたりとか、現場で何かを見たり、人の気持ちをフォローしたりすることができない状況だったんですね。メールもまだない時代です。それは逃げと言われればそうなんですけど、スケジュールをこなすためには、どうしようもなかったですから。世界的な活動だけに焦点を絞っていたわけではありませんでしたが、せっかくお膳立てをしていただいたので、自分ができる限り全うしなければと思っていました。けれど、私の体と頭は一つしかないわけで。スタッフもすべて担当がバラバラだったんですね。海外のチーム、日本のチーム、ライブのチーム……他にもありますが、そこに連携がないので、1人の人間がすべてをこなすのは到底無理なんです。常に別のプロジェクトの人が、私の体や頭が空くまで一つの物事が終わるのを待ってるわけですよ。それがもう限界に来たっていうのはありますね。
――もうこのままではいられない、そういう気持ちですよね。
浜田:はい。誰か1人っていうことじゃないんですよ。全体の空気ですよね。日本人って特にそういう傾向が強いじゃないですか。今回のアルバム(2023年4月19日リリースの『Soar』)にも繋がる、「Escape From Freedom」ですよ。ちょっと出る杭になると叩かれるし、一方をフォローをすると自分もいじめられちゃうから、何となくいじめっ子のほうに半分いるみたいな。そういう感じで全体が集合的に急変するんです。ワーッとテレビに出たりして、シングルがチャート上位になったときは、それこそ親戚と言う人がたくさん出てくるみたいな状況ですよ。その逆のことが突然起こったりするんですね。そういった人間の浅はかさが私は大嫌いで。自分の将来に繋がるものがありませんでした。結果的にゴタゴタの結末も含めて、すべて自分で背負いながら、一度ゼロに戻したかったんです。その後を言うと、多くの人たちと現在は仲直りをしていて。「あの当時はごめんなさい」ってわざわざ言ってきてくれた人もいるんですけど、そのときは酷かったですね。それを優しく見守っているバンドメンバーもいましたけど、そこまで来ると、バンドは一旦解体せざるを得ないですよね。となれば、ツアーどころの話ではないですから。
――では、海外で音源をリリースする、ライブを行うことについては、どのように考えていたんですか? 1980年代にLOUDNESSがアメリカのAtlantic Recordと契約して以降、日本のアーティストが海外進出を目指す動きは増えていきました。ただ、麻里さんの場合は1990年代に入ってからの話ですので、それとはまた違う視点なんだろうなと思うんです。
浜田:そうですね。やっぱりバンドとソロシンガーでは大きく違うと思います。1987年からアメリカの人と密に仕事をし始めて、私にとって海外進出は夢ではなく、現実の問題でした。いろいろな意味のハードルが身に沁みて見えるんです。MCAビクターへの移籍をした際、海外での活動も一つの条件でしたし、普通は巡ってこないお話なので、進めていただいたはいいけれど、私はすでに30歳を越えていて、「ぜひ海外で夢を実現させたい」みたいな意気込みは正直言うと持ちにくかったんです。私の親が2人とも50代で倒れて要介護状態になったこともあって、私は比較的早くから両親の介護問題を抱えていました。そんな状況で家族を置いて海外移住など、考えたこともありませんでした。
海外活動においての私のA&Rはロンドンの有力者で、その人経由で海外用の曲も密かに作ってはいました。そのための新たなプロデューサー探しをして、何人かとコラボをしましたが、納得できる才能を持つ人は出てきませんでした。MCA推薦の方でも、これは上手くいくわけがないだろうなという感触が強くあったんですね。何も未来への焦点が見えないんです。もしも仮にそのタイミングで、本当の意味での世界戦略みたいな部分で、私の意識と合致するプロデューサーと出会っていたら、海外活動を続けた可能性は少しあったのかもしれない、とは思います。
その最中に、海外も含めたレーベルの大編成が起きて、結局、私を売り出そうとしていた海外陣の人たちは異動や解雇になったりして、もう海外での活動を続けるために根を下ろそうという気持ちはありませんでした。いい意味で辛いのは全然嫌いじゃないんですよ。でもあまりに非合理的で。たとえば、ヨーロッパツアーでいろんな国に行くと、母国語は英語ではないんです。日本人と比べれば英語が達者な人は多いにせよ、なぜお客さんの母国語でもない下手な英語で自分は歌っているんだろうという疑問が出てきたりするんですよ。
――自分は何のためにやってるんだろうとも思うと。
浜田:そうです。話がちょっと逸れますけど、キム・ワイルドのオープニングアクトという形でヨーロッパで初めてツアーをやったんですね。たぶん、日本人のソロボーカルで初めてヨーロッパツアーをやったんだと思います。そのときの面白い話があって、移動の苦しさは大丈夫なんですけど、途中でキムが(浜田麻里と廻るのを)嫌だと言ったんだと思うんですよ。私の音楽のほうが多少ハードだし、バンドのミュージシャンが結構凄かったんですね。ギターは私の希望で増崎くんで、ドラムはトニー・トンプソン、ベースはトニー・フランクリン、キーボーディストはその後もアメリカですごく売れたポール・マルコヴィッチ。コーラスは私の妹(浜田絵里)です。
キムは私よりも1〜2世代上で、体力的にも落ちてきていたり、歌にも自信がなくなっていたりとか、メンタルがかなり厳しい状態だったんですよね。かたや私は喉も絶好調に近く調整できていて、場所によってはライブもすごく盛り上がっていた。そんな中で、なぜかイギリス人のツアーマネージャーが、「パスポートをなくしちゃったんでオランダに入れません」とか、「衣装が届かないから今日はキャンセルしませんか」とか言うようになってきたんですよ(笑)。それでも私は「やる」と答えて、結局続けたんですけどね。パリでは最初の2曲で演奏を止められてしまいましたけど。当時のキムの気持ちは、今の私にはよく理解できます。でも私は経験上、いじめる方には決してなりません(笑)。
――オープニングアクトのウケがよかったりすると、ヘッドライナーから何らかの注文が入るという話はよく耳にしましたよね。
浜田:そうですね。当時はインターネットも今ほど普及していなかったですが、当時のキムのサイトに、ふざけた中傷が書かれていたらしくて。“Mari Hamada”っていうローマ字表記が、西洋人から見ると、腹切りとか、大麻関係の単語を連想させるような部分があるみたいなんですね。そういうのを引っ掛けて、馬鹿にした中傷が晒されていました。今なら問題とされるヘイトとも感じられる内容です。キムを担当していたロンドンのA&Rが私と同じだった関係でそのツアーに参加したんですけど、私は一応、アジア圏で一番売れているMCAのアーティストという肩書きでしたが、彼らにとっては、ヨーロッパ圏だけでなく当時アメリカでもヒットしていたキムのほうが大事ですから、急激に私から引いていったところもあったのかなと。スタッフが私の立場になって、文句一つでも言ってくれれば、それに鼓舞されたかもしれません。けれどそういう人はいませんでした。一日本人が、一つの仕事に真剣に挑んで結果を残すことは本当に大変なことだったということですね。
――本気でやるなら、きちんとした環境作りからしなければいけないのだと。
浜田:そうです。より多くの人に聴いてもらうという点では、今はサブスクでほとんどボーダレスになってますから、当時とは全然違うチャンスがあるとも思うんです。ただ、あの当時は、それこそドサ回りをしてまでもツアーをやってみたいなっていう気持ちになるシチュエーションはなかったですね。年齢的にも完全に大人になってたし、日本の家族も私が守らなくてはいけませんでしたから。
――そして次回は『INCLINATION』(1994年3月)のリリースから伺っていきます。
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