小田和正、長きに渡り聴き手を魅了し続ける理由 オフコース時代からソロでの大ヒットまで、歌とサウンドの変遷を辿る

小田和正、歌とサウンドの変遷を辿る

 ここ最近、J-POPのレジェンド達の新作が続いている。6月15日に小田和正が『early summer 2022』を、22日に山下達郎が『SOFTLY』を、29日には自らラストアルバムと公言し、吉田拓郎が『ah-面白かった』をリリースした。内容は三者三様だが、長きに渡り音楽シーンに影響を与え、支持を受け続けてきたことでは共通する。

 なかでも、本日放送の『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日系)にて特集が放送される小田和正は、リリースにしろツアーにしろ、行くところ“最年長記録”がつきまとい、「超人」と呼べるほどの活躍ぶりだ。現在の年齢(9月で75歳になる)を考えると、まさにこの言葉が相応しいだろう。

 それを支えるのは、自身の摂生も大きいが、歌が長きに渡り、幅広い聴き手を魅了し続けているからに他ならない。コロナ期間は致し方ないが、間を置かず開催されるツアーも大きい。客席にいた人々が、その感動を小田伝説として友人知人に伝え続けているのだ。

 なぜ小田にはこんなことが可能なのか。彼のルーツに着目しつつ、改めて紹介したい。

小田和正 New Album 「early summer 2022」 TV SPOT A

 まず最初は、天性の部分だ。彼は一般成人男子には真似できない幅広い音域で歌える。しかも、よく透明感と評される印象的な声質の持ち主だ。以前取材した際、声に関しては「変声期らしきものは経験してない」と言っていた(※1)。中学・高校と軟式野球に打ち込んでいた頃、仲間を鼓舞するためベンチで大きな声を出したことで、自然と喉が鍛えられたという説もある。

 高校から大学への時期は、Peter, Paul and Maryなどモダンフォークをコピーすることに熱中する。音楽の構造を実践的に学び、フォークに留まらず、ヘンリー・マンシーニやミシェル・ルグランなど、映画音楽にも興味を広げた(※2)。小田の楽曲には同世代のいわゆるフォークシンガーにはない凝ったコード展開が見られるが、この時代に探求し、吸収したものが大きいのだ。

 また、大学では合唱サークルの活動にも取り組み、多田武彦といった作曲家を好んだ。思えば、1970年に小田がボーカリストとなってデビューしたオフコースは、「僕の贈りもの」からして重厚なコーラスワークが魅力だったし、「Yes-No」などもそうだ。特色としては、表面的ではなく、楽曲の核の部分にハモリのアイデアが染み込んでいるところであり、そのひとつのルーツが合唱にあるのだ。

 小田、鈴木康博、地主道夫の3人組として結成し、1972年から小田と鈴木のデュオとして活動していたオフコースは、80年代に向けてリズムセクションを加え、1976年に5人組に発展する。EaglesやTOTOなどウェストコーストのサウンドを吸収し、作風も変化し、以後、小田は楽曲のなかでも「バンドのカッコよさ」を伝えようと努力する。当時でいうと、ツインギターが爽快な「愛を止めないで」は、その意味での典型的な楽曲だろう。

 歌詞の書き方も少しずつ変化する。ただ、普遍的な感情を理解しやすい言葉で綴るのが今も昔も小田流である。ノリを重視して韻を踏んだり、流行りの単語を取り入れたりはしない。

 70〜80年代の作品を聴いても古さを感じないのはそのためだ。具体的に示すと、「生まれ来る子供たちのために」を聴けば、普遍性の意味がわかる。この曲はメッセージソングにも分類されるだろうが、いつの時代も人が抱えるテーマを描いており、楽曲自体は壮大な作風のようでいて、聴く人間各々の足元を、ちゃんと照らすのだ。

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