立花ハジメ×野宮真貴×高木完、PLASTICSが先駆した時代とカルチャー 「日本におけるSex Pistolsみたいな存在だった」

立花ハジメ×野宮真貴×高木完PLASTICS鼎談

 1982年にYENレーベルからデビューした立花ハジメが、初のオールタイムベストアルバム『hajimeht(ハジメ・エイチ・ティー)』を1月15日にリリースした。伝説のテクノポップバンド、PLASTICSを経て、ソロに転身して以来、常に斬新な音楽を追求し続ける立花ハジメのヒストリーをレーベルの枠を超えて収録した本作は、改めて彼の異才を確かめることができる充実した内容になっている。

 リアルサウンドでは、立花ハジメと、本作の監修と選曲とリミックスに携わった高木完、PLASTICS時代からの大ファンであり、3月にライブで共演が決まった野宮真貴の鼎談をお届けする。3人のリアルタイムのニューウェイヴ体験やPLASTICS時代のエピソードなどを中心に、音楽家、グラフィックデザイナー、映像作家として多岐に渡り活躍する立花ハジメの唯一無二の魅力をおおいに語り合ってもらった。(佐野郷子)

「私が音楽を始めたきっかけはPLASTICS」(野宮)

野宮真貴×立花ハジメ×高木完
野宮真貴×立花ハジメ×高木完

野宮真貴(以下、野宮):ハジメさんと取材でご一緒させてもらうのは初めてですね。

立花ハジメ(以下、立花):そうだね。

高木完(以下、高木):僕も真貴ちゃんとの付き合いは長いけど、鼎談は初めてかも。僕ら二人はPLASTICS直球世代ということになるのかな。

野宮:そう。私と完ちゃんは同世代。ハジメさんは一世代先輩ですが、そもそも私が音楽を始めたきっかけは、ハジメさんがいたPLASTICSでした。

高木:真貴ちゃんは最初、どこで知ったの?

野宮:たぶん、テレビだったと思います。いきなりピコピコしたサウンドがテレビから聴こえてきて、ひと目で夢中になりました。

立花:あの頃、PLASTICSはけっこうテレビの音楽番組に出ていたからね。

高木:PLASTICSが宇崎竜童さんがいたダウンタウン・ブギウギ・バンドと同じ事務所だったことも関係していたんですか?

立花:それは分からないけど、Pちゃん(PLASTICS)のメンバーの島ちゃんこと島武実は作詞家としても活動していて、島ちゃんが宇崎さんと起ち上げた事務所にお世話になることになったんだよね。

高木:佐藤チカちゃんが、ダウンタウン・ブギウギ・バンドのアルバムのジャケットに写っているのが当時は不思議だったんだけど、実はそういう縁があった、と。チカちゃんはスタイリストも務めていたから。

野宮:それは知らなかった!

高木:僕はテレビでジョニー・ロットンと同じ服を着ている俊ちゃん(中西俊夫)を見て、原宿の洋服屋「赤富士」に通いだした頃、その人がPLASTICSというバンドをやっていることを知ったのが最初。それ以来、リアルタイムでPLASTICSを追いかけて、そのうち仲良くなったんだけど、生前の俊ちゃんにその頃のエピソードをいろいろ聞いたんだよね。

――立花ハジメさんはグラフィックデザイナー、中西俊夫さんはイラストレーター、佐藤チカさんはスタイリストという非ミュージシャンであることもPLASTICSの面白さでした。

野宮:それがすごくオシャレで、カッコよかったんです。私はそれまではKISSが大好きないわゆるロック少女で、ボーカリストになりたかったんだけど、自分の声質はロックに向いていないと悩んでいた頃、PLASTICSが登場して衝撃を受けたんです。

立花:そういう人は多かったみたいだね。

野宮:私もすぐに髪を切ってツンツンヘアーにして、ファッションも変えて、ニューウェイヴ少女に。若くてお金もないから古着屋さんでミニスカートなんかを探して、女の子ばかりのPuzzleというテクノポップのバンドをやっていたんですけど、PLASTICSは憧れの存在でした。

高木:僕は高校時代に組んでいたFLESHというバンドで、PLASTICSのライブの前座を務めたこともあるんだけど、ハジメさんやトシちゃんが着ていた服まで覚えている。ファッションも入れると、PLASTICSは日本におけるSex Pistolsみたいな存在だったかもしれない。

野宮:PLASTICSのように音楽と同じくらいファッションやビジュアルを大事にすることは私のベースになっていったし、それがのちのピチカート・ファイヴにも繋がっていくんです。

高木:確かにそうだね。

立花:Pちゃんはデザインやアート、ファッションの近くにいたからね。それが当時のシーンでは新鮮に見えたんだと思う。

野宮:そう。圧倒的に新しかった。

――PLASTICS、ヒカシュー、P-MODELはテクノ御三家と呼ばれていましたね。

野宮:あの頃は同時期にテクニック志向のフュージョンも流行っていましたが、テクニックよりセンスが大事だってことを私に気がつかせてくれたのがPLASTICSでした。

高木:うん。価値観を変える存在だったよね。

野宮:ドラムがいなくてもリズムボックスでいいじゃない? とか、楽器が苦手でもセンスがいいならOKとか、バンドの発想や在り方も変えましたよね。

立花:Pちゃんも最初はドラムやベースがいるバンドだったんだけど、世界に出て行くにはそれでは普通すぎるだろうと思って、島ちゃんやマーチャンこと佐久間正英が入ったときにリズムボックスやシンセを入れたんです。

高木:70年代後半に世界に打って出ようとしたところも早いですよね。それは日本のロックシーンがつまらなかったという理由もあったんですか?

立花:いや、やっぱり若かったからだね。自分たちがどれだけ世界で通用するか知りたかったんだと思う。

野宮:それまで世界に出た日本のバンドって、サディスティック・ミカ・バンドくらい?

高木:ミカ・バンドはRoxy Musicとツアーを回ったりして話題になりましたよね。YMO(Yellow Magic Orchestra)もPLASTICSと同時期に海外に進出したけど。

立花:僕らはイギリスのインディペンデントレーベルのラフ・トレード・レコードからデビューして、大きな後ろ盾もなく地道に欧米でツアーをしていたからミカ・バンドやYMOとは少し性格が違うんだよ。

高木:向こうのレーベルと契約して海外ツアーをするというPLASTICSが開拓した道を90年代にピチカート・ファイヴやCorneliusが引き継いでいったとも言えるんじゃないかな。

野宮:そうですね。今でこそ海外で活躍する日本のミュージシャンは増えたけれど、PLASTICSはその先駆者でしたね。

高木:PLASTICSの日本でのデビューは1980年だけど、真貴ちゃんがソロデビューしたのっていつだっけ?

野宮:1981年。実は1年しか違わないんです。完ちゃんはその前に知り合って、私のデビューコンサートにも来てくれたりしたけど、PLASTICSとはレコード会社も同じでしたが、当時はお会いしたことはなかった。

高木:それも意外だね。

野宮:私はソロデビューが鈴木慶一さんのプロデュースだったので、当時はムーンライダーズまわりの人たちと一緒になることが多かったんですね。その頃、朝まで営業しているゲームセンターでハジメさんがゼビウスをやっているところをお見かけしたことはあります(笑)。

立花:そうだ。インベーダーゲームの後はゼビウスに夢中になったんだ。

高木:ゼビウスということは、ハジメさんがソロでデビューした1982年頃だね。

野宮:「あのハジメさんがゲーセンにいる!」って、ちょっと嬉しかったんです。

高木:ハジメさんって普段はどういう人なんだろうと思わせるところがあったよね。僕が初めてハジメさんと話したときも、新宿ロフトにべスパで乗り付けて、カッコイイと思ったもん。

野宮:そう。いつも、どの時代もオシャレでカッコイイ。

高木:『巨人の星』の花形満みたいなんだよね。私生活が見えないというか、どこかミステリアスな雰囲気があった。

野宮:ハジメさんとちゃんとお会いしたのは、ピチカート・ファイヴの『ロマンティーク96』でPLASTICSの「Good」をカバーしたとき。ハジメさんにギターとバッキングボーカルで参加していただいたんです。

立花:ああ、そうだったね。

野宮:ちょうどその頃、ピチカートでアメリカ14都市を回るツアーが決まって、レコーディングのときにワールドツアーの先輩であるハジメさんに「何かアドバイスはありますか?」と聞いたら、「とにかく日本食を持っていけ」って(笑)。

立花:そんなこと言ったっけ? でもね、長期の海外ツアーではすごく大事なことだったんだよ。ライブが終わった後に食事をする店が全然ないんだから。

野宮:向こうはライブが始まる時間が遅いから、終わると深夜ですもんね。

立花:そう。特にアメリカの地方都市はどうにもならなくて、日本のインスタントラーメンやレトルト食品に助けられたから。

野宮:私もトランクの半分に日本食を詰めて行きましたよ。この前、Ginger RootのUSツアーのフロントアクトを務めることになったアマイワナちゃんに同じことを聞かれて、私も「海外ツアーに日本食はマスト」って答えました(笑)。

高木:面白い。ハジメさんのアドバイスが伝承されている(笑)。

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