BREIMEN 高木祥太、生々しいサウンドに乗せた贖罪の念 アルバム『FICTION』に込めたテーマを語る
前作『Play time isn’t over』から、わずか1年2カ月。BREIMENが3rdフルアルバム『FICTION』を7月20日にリリースした。サウンドプロダクションやアンサンブルにおいてもその音楽的な更新の精度は尋常ではなく、デモを作らない/実機のみでソフトシンセなども使わない/クリックも聞かない、などの制限を設けながらあらゆるジャンルの旨味をとことん煮詰め、もはやプログレや組曲のような複雑な楽曲の構造も、とびきり刺激的でありながら「これもまたBREIMEN節」と思わせる説得力がある。さらにJ-POPの旋律を解体し、新しいフェイズのキャッチーさを提示するようなリード曲「MUSICA」が象徴的だが、メロディの求心力もまた増幅している。
しかし、歌詞の内容を見つめると、バンドのソングライターでありフロントマン、そしてベーシスト、さらにはTempalayやTENDREの現場でもサポートの枠を超越した活躍を見せている高木祥太(Vo/Ba)の個人的な贖罪の念のようなものが浮かび上がってくる。そういったリリックとサウンドとメロディが濃密に絡み合いながら、本作を忘れがたい音楽作品にしてみせているのである。前作から短いタームでなぜこのようなアルバムを作り上げることができたのか。高木祥太その人にじっくり語ってもらった。(三宅正一)
自分を俯瞰して歌詞にする感覚が、モキュメンタリーのようだった
ーー率直に、ものすごく大きなアルバムだと思うんですね。BREIMENというバンドにとっても、高木祥太個人にとっても。
高木祥太(以下、高木):めちゃくちゃ疲れました。
ーー多忙な中でよく作り上げましたね。
高木:去年の5月に『Play time isn’t over』をリリースして、そのあとツアーもやって、(井口理×岡野昭仁の)「MELODY(prod.by BREIMEN)」も作ったり、特に今年の3月くらいからはちょっとスケジュールがヤバかった。
ーーさらにTempalayやTENDREの現場もあって。
高木:そう。とにかく隙間がない、みたいな(苦笑)。しかもBREIMENの制作は日を跨いだりするから、もう訳わかんないスケジューリングで。制作だけではなくBREIMENとしての稼働が前より多くなって、その合間にTempalayやTENDREの現場に入る感じでしたね。でも、それくらいのスケジュールの中でもアルバム制作に集中できて。このアルバムは事前にデモを作らないとか、クリックを使わないとか、いろんな制約を設けて制作したんですよ。あとは、メンバー5人の音しか入れない、ソフトシンセを使わないという縛りもあって。去年の9月くらいから3泊4日とか4泊5日くらいの合宿に月イチペースで入って、BREIMENの制作に集中する時間を作ったのもよかったですね。
ーーそれにしてもTempalayもTENDREもサポートメンバーの域を超えてる役割を果たしていると思うし、これからもっと外に求められる仕事も増えるんじゃないかと思うんですけど。
高木:たしかにどちらも、俺がいることですごく絶妙なバランスで成り立ってるところはあると思う。でも、そもそもTempalayもTENDREも俺自身がサポートと思ってやってないから。逆に言えば、迎えてくれる彼らが俺を単なるサポートじゃないと思ってくれてるから参加できるし、そうじゃない現場には参加できないと思う。
ーーどの現場もフルスロットルで臨んで、さらに自分のバンドにおける音楽的な更新の仕方においても、歌ってる内容についても、ここまでヘヴィなアルバムを作り上げるのはちょっと驚異的ではあるけどね。
高木:言われてみれば驚異的かもしれないですね。でも、たぶんすべて俺が得意なことしかやってなくて、どの現場でも自分の得意なことに全振りしてるから成立しているんだと思う。苦手なことはマジでやってないから(笑)。自信を持って言うことではないけど、事務的な作業とか時間の約束を守ったりするのはすごく苦手で。
ーー音楽以外の部分では欠落しまくってると。
高木:欠落しまくってますね。よく「一人の時間が欲しい」って言う人いるでしょ? 俺はいろんな人がいる場所でも一人の時間を作れる能力があることに最近気づいて。実家にいたころもずっと家に誰かがいる生活を送っていたんだけど、一人の世界に入り込むことができていたんですよ。その結果、人からしたら「なんでこんなに話を聞いてないんだ?」みたいなことによくなるんですけど。それってある種の脳のエラーでもあると思うんですけど、いろんな人がいる空間でも別次元に思考を持っていくことができるというか。
ーーでも、「祥太だからまぁいいか」って思わせる魅力がありますよね。
高木:良くも悪くもですけどね(笑)。
ーーこのアルバムは1曲目のインスト「フィクション」を経て、2曲目「ドキュメンタリ」は〈人たらし人だまし〉という歌い出しで始まるんですけど、ストレートに聞きますが、今作は個人的な懺悔や贖罪の念みたいなものを全体的に感じるんですね。それがこのアルバム特有の“忘れがたい感触”の大きな一端にもなっていると思います。なぜこういうアルバムになったのかというところから聞かせてもらえますか?
高木:このインタビューで全部言おうと思ってたから、言います。まず去年、このアルバムを作る前に俺は本当に大好きだった人を裏切ってしまって。俺はずっと周りに助けてくれる人がいたから、今まで内省的に自分自身と向き合うことを本当にやったことがなくて。強いて言うなら歌詞を書くときがその瞬間に近いかもしれないけど、歌詞を書くっていう目的を持たずに、ただ自己と対峙することはずっとやってこなかった。それで、今回の件があって、初めて内省する経験をしたんですね。ずっと家から出ない期間もあって。そこからBREIMENの制作が始まったときに……大切な人を傷つけてしまった事柄に触れず、全然違うことを歌詞にする選択肢もあったんですけど、俺の場合は書かないと気持ち悪いなと思ったし、書かざるを得なかったというか。もっと言えば、「ドキュメンタリ」の歌詞にも書いてるけど、俺としてはもはや自分を俯瞰して歌詞にする感覚が、モキュメンタリーのようだなとも思いました。どこかで、こっちのほうが人生が面白くなるし、歌が書けてしまうと思わせる悪魔みたいな自分がいる感じもあって。それも内省した結果わかったことなんですけど、脚本家みたいな人がいるんだなと思ったんですよね。
ーー自分の中に?
高木:そう。だからこそ、自分に起こったことを書かざるを得ないなって。最初は本当に最悪な自分自身を全部曝そうと思ったんだけど、それは手紙には及ばない。その人に対しての贖罪の気持ちを音楽で伝えようとしても、音に乗る時点で自分がどこかで脚色するから。結局、俺の記憶の中に残ってるのは都合のいいロマンティックできれいな瞬間ばかりで、どこかで絶対にフィクションにしてしまっている。そう思ったときにアルバム全体のテーマ自体が“フィクション”だなという、言ってしまえば全くもって突飛じゃない普通のテーマにたどり着いた感覚があったんです。
ーーたしかに「ドキュメンタリ」が顕著だけど、自分自身の贖罪の念もフィクショナルな見世物にして落とし前をつけるという、ある種の開き直りのようなものも感じます。
高木:まさにそんな気持ちがありましたね。変な話、さっき言った去年の出来事って、俺と相手の関係性をよく知らない人からしたら、もはや笑っちゃうんですよ。「なんだ、それ?」って呆れられるというか。本当にコアな関係性の人は怒ったり傷ついたりもするけど、このアルバムを聴く人にはその部分は届かないし、俺も聴く人たちに非難してほしいわけじゃないから。極論を言えば俺と相手の2人と、かなり近い関係性にある人たちの問題なんですけど、去年その件があって、友人関係とかも全部ごちゃごちゃになったんです。そのときに思ったのは、俺自身も含めて、人って自分が見たいと思う相手の姿しか見れないんだなということで。それは曲の解釈にも置き換えられる話だと思うんですね。ほとんどの人は本当のことはわからないけど、それでいい。そういう気づきも『FICTION』というタイトルには含まれてます。ーー根幹にあるテーマの実相はシリアスだし、音楽像としてももっと陰影の濃い表現もできたかもしれないけど、やっぱりどんどん精度が研ぎ澄まされてる、今のBREIMENのオルタナティブかつポップなサウンドに乗せる歌詞として、言葉遊びやユーモアも遠慮なく弾ませていますよね。
高木:そう。やっぱり俺は音楽家なんだなと思った。音楽としてアウトプットするとなると、そういうものになるというか。だから、さっきも言ったけど謝罪の手紙にはならないなって。最初、俺はこのアルバムを誰よりもその裏切ってしまった相手に聴いてほしいと思ったし、今も聴いてほしいと思ってるけど、もはやその人に向けてというよりは、自分が自分に向けて作ってる感じがどんどん強くなっていて。
ーー贖罪の念はめちゃくちゃあるし、それは絶対的な根幹なんだけど、それでも「申し訳ない。やっぱり俺はこのことも音楽にする人間です」ということですよね。
高木:そうなんですよね。その人との関係においては、人間・高木祥太と音楽人・高木祥太が切り離されてなかったし、たぶん相手はどっちも嫌いになってしまったと思うんですよ。でも、めちゃくちゃ身勝手なことを言うと、俺の中では音楽人・高木祥太だけは許してほしいという気持ちが、少しはある。そんなこと言う資格はないけど。
ーーただ、事実としてこういうアルバムを作ることは高木祥太の音楽人生の中でも避けて通れなかったと。
高木:そうですね。だからこのアルバムを作り終えて、やっと2021年が一旦自分の中で終わったような感覚がある。このアルバムが完成したのはこの6月だけど。
ーーラストの「エンドロール」も、生きるために遺書を曲にしてるみたいな曲だなと思って。言い方は難しいけれど、これだけ贖罪の念に満ちたアルバムでありながら、ものすごく生命力を感じるアルバムですよね。それは、音楽的にも。
高木:うん、音も生々しいと思う。レコーディングを実機縛りにしたのも、フィクションでありながら限りなくリアルな人間味に近づくにはどうしたらいいかという意識があったからで。心臓の鼓動は一定じゃないからこそ、クリックを使わなかったりとか。
ーーそういったサウンドプロダクション上の縛りとアルバムのテーマは、どちらが先にあったんでしょう?
高木:入り組んでましたね。もはや、クリックを使わないという縛りに関しては後づけかもしれないな。最初に思いついたのは、サウナで整ったときに「心臓の鼓動はこんなにめちゃくちゃに揺れるのに、なんで俺はクリック使って音楽をやってるんだろう?」ってことで。そこから、5人だけの音のみでソフトシンセを使わず、デモも作らないという縛りをどんどん設けていって、それと並行して個人的な歌ができていった。これまでリリースしてきたアルバムで言うと、『TITY』はキミとボクの話で、『Play time isn’t over』は俺とみんなの話で、今回のアルバムはずっと自分語りをしているから“俺だけ”なんですよね。でも、それをバンドメンバーと一緒に曲にすると考えたときに、デモを作って、俺が思う世界観だけを押し通したら、本当にバンドでやる意味がなくなっちゃうと思って。それで、早い段階から歌詞のテーマや意図をメンバーにも共有したんです。「俺の曲だけど、BREIMENの曲でもあるよ」ってみんなが思える必要があると思ったから。俺はBREIMENの曲の特徴として、音と歌詞の親和性がすごく高いと自分でも思っていて。
ーー間違いない。
高木:もともと俺は、基本的にオケを作る前に、絶対に歌詞かテーマを用意するんですね。その状態じゃないと曲が作れないし、もしかしたらオケから先に作ったものは1曲もないかな。メンバーも音楽家としてのスキルが高いし、特にギターの(サトウ)カツシロは歌詞に寄り添ったアプローチでフレーズをつけてくれるんですよ。そうやって曲ができる順番も大きいと思う。
ーーこのアルバムで、推測が及ばない動きを見せるサウンドプロダクションも、ポップという概念の姿形も明らかに更新されてると思う。実際にジェラシーを覚える音楽家も少なくないだろうなと。
高木:言ってしまえば今の時代、ただいい感じの曲は誰でもいくらでも作れると思うから、その中で「俺らがバンドで音楽をやる意味は何だろう?」って考えると、“音楽のことばかり考えてる音楽家たちが聴いて、ちょっとでも滾るものでないと作る意味がなくなっちゃう”っていう最低ラインはあるかも。もちろん、そのためだけにやってるわけではないんだけど。このアルバムを作って俺も疲れたし、実際に聴いてみても疲れるけど(笑)、それでいいと思っていて。ある意味すべてが時代に逆行しまくってるんですよね。レコーディングでクリックを使わないことも、実機しか使わないことも。単曲ではなく、アルバムで聴かせようとしていることもそう。このアルバムは1回でもいいから通しで聴いてほしくて。1回通しで聴いてもらったら、2〜3週間はもう通しで聴かないでくれてもいいと思ってる。それで時間が経ったらまた通しで聴きたいと思える、ちょっとした映画のような聴かれ方をされたらいいなと思ってる。