JUJU、DISH//、Hey! Say! JUMP……小倉しんこう、作家としてのモチベーションと楽曲の個性の出し方

小倉しんこう、作家としてのモチベーション

 良縁に恵まれて作家業が始まった――そう謙遜する小倉しんこうは、これまでにJUJU、DISH//、Hey! Say! JUMPといったアーティストたちに楽曲を提供し、数々のヒット曲を生み出してきた。ハートウォーミングなバラードから激しいロックサウンドまで幅広く手掛ける彼は、どのような音楽に親しみ、作家人生を歩んできたのか。原点であるDTMとの衝撃の出会いや、JUJU「やさしさで溢れるように」のヒットが生んだ苦悩、DISH//との作業から得たこと、さらに今後目指したい楽曲制作の在り方など、さまざまな角度から音楽観を紐解いた。(猪又孝)

小学生のときのゲーム音楽が原点

――まずは音楽の原体験から教えてください。

小倉しんこう(以下、小倉):小学生のときのゲーム音楽が原点です。1980年生まれでファミコンがど直球の世代なんですが、目が悪くなるという理由で買ってもらえなかったので、毎日、友人の家でゲームをやらせてもらっていたんです。最初はゲームに興味があったんですけど、やっているうちにゲームの後ろで流れている音楽に興味が沸いてきて。ある日、ゲーム音楽を耳コピして音楽室のピアノで弾いたら休み時間の人気者になって、それがきっかけで音楽が好きになっていきました。

――当時よく弾いたゲームタイトルは?

小倉:『スーパーマリオブラザーズ』とか『ファイナルファンタジー』ですね。あと『ドラゴンクエスト』とか。

――以前からピアノは習っていたんですか?

小倉:自分が小学5年生のときに、妹がピアノを習い始めたんです。音楽に興味を持ったのとほぼ同時期だったので、妹が弾く様子を盗み見しながら運指とかを覚えました。その後、ちゃんと習わないと弾けないということがわかって、小学5年生から6年生まで1年間だけ習いました。

――プロフィールによると、小学校時代から作曲を始められたそうですね。

小倉:家に帰ってきてもゲームがないわけですよ(笑)。それが寂しくて、ノートにモンスターが並んでいる絵とか、「たたかう」とかコマンドを描いて、その絵に合う戦闘の音楽をピアニカで弾いて、ひとり遊びしていたのが作曲の始まりです。

――それがどう進化していくんですか?

小倉:ピアノを習いに行っていたときに、ピアノ教室の息子さんの部屋のドアがたまたま開いていて、息子さんがヤマハのシンセサイザー EOSと当時まだ四角い筐体だったMacで作曲をしている様子が目に飛び込んできたんです。ベースや、ドラムが鳴ってて、よくわからない機材が並んでいて。それが衝撃的で何の断りもなく、口をあんぐり開けながら、息子さんの部屋に入って行っちゃったんです(笑)。

――体が無意識に動いてしまったんですね(笑)。

小倉:作曲している様子を背中から見て、そこでDTMの存在を知ったんですけど、当然、機材を揃えられるお金は持っていなかったので、中学校時代は吹奏楽部に入って、いろんな楽器と合奏することで、どうにか気持ちを紛らわせていました。転機になったのは高校に入学したときです。入学祝いに何か買ってほしいという話をして、当時、Rolandから出ていた「ミュージ郎」という機材とパソコンをセットで買ってもらったんです。

――そこから独学で打ち込みを始めたんですか?

小倉:たまたま高校での同学年に同じような興味を持ってる子が2人いて。その友達と情報交換したり、遊びに来てもらって使い方を教わりながら、DTMを覚えていきました。

――当時はどのような音楽を作っていたんですか?

小倉:そのときも興味があったのはゲーム音楽でした。

――その頃になるとゲーム音楽自体も進化していたのでは?

小倉:そうなんです。自分が中学生の頃にプレイステーションが発売されて、PCM音源が主流になっていったんですよね。それが音楽魂に火を付けることになって、ゲーム音楽だけどオーケストラもあればテクノもあるぞって。当時、自分が再現したかったゲーム音楽は『リッジレーサー』でした。友達の家で『リッジレーサー』をやらせてもらったときに、グラフィックの美しさよりも、バックで流れているテクノ音楽が気になっちゃったんです。

――小倉さんが高校時代の90年代中盤は、テクノ、ハウス、ヒップホップといったクラブミュージックがどんどんメインストリームに進出していきました。

小倉:自分はそこにゲーム音楽の方から触れていったんです。ゲームで耳にして「この音楽は何というジャンルだろう?」ってCD屋に行って、デトロイトテクノとかジャングルだっていうことを知っていくっていう。

――デトロイトテクノで有名な人はデリック・メイっていうんだ、みたいな(笑)。

小倉:そうです(笑)。ただ、アーティスト単位ではなく、ジャンルで追いかけていく感じでした。高校の近くにTSUTAYAがあったので、そこで毎週数枚、ジャンルを絞って借りるんです。当時はジャングルが好きで、そこから派生してブレイクビーツとかビッグビートとか、あとはちょっと古いですけど「マハラジャナイト」のノンストップミックスとか。

――ユーロビートとかハイエナジーですね。

小倉:そういうのを借りて1週間かけて耳コピして、自分でキックやハイハットの位置を楽譜として書き起こしていく。それを自分で打ち込んで再現して、「このジャンル、どうやって作るんだろう?」って覚えていく。学校の休み時間では足りなくて、授業中も楽譜を書いてました。

――その後の進路は?

小倉:それだけ音楽にどハマリしていたんですが、実家がお寺だったので、将来はお坊さんになるんだろうなと思って仏教学部がある東京の大学に進学しました。

――大学時代の音楽制作は?

小倉:引き続きDTMで音楽を作りながら、学生時代の思い出作りとしてバンドを掛け持ちしてやっていました。大学に入ってからスカコアやスカパンクにハマって、KEMURIとかPOTSHOTとかに憧れて。そこで初めてバンド用の曲を作りました。

――人が歌う曲を作るようになるんですね。

小倉:そうです。そもそも内向的な性格でしたし、それまでは部屋でゲームミュージックを作って、ひとりでニヤニヤしてるだけだったので(笑)。

――そのバンド活動が現在の作家業に繋がるんですか?

小倉:掛け持ちしていた中のひとつに女の子をボーカルに据えたバンドがあって、ソニーミュージックのオーディションに1回応募したんです。そうしたら「良い曲だけど、歌モノをずっと書いてるの?」「デビューを考えているんだったら話を聞きます」みたいな電話をもらって。そのときに自分の曲にプロの人が興味を持ってくれたって大興奮しましたね。でも、実家を継ぐし、プロになるのは無理だろうという思いがぼんやりあって、細かい理由は忘れましたが、その話は自然消滅しちゃったんです。

――そうだったんですね……。

小倉:結局、大学時代のバンドは全部解散して、卒業後は実家に戻ってお寺の手伝いを始めました。だけど、バンドをやっていたときの楽しさとか、「あのときちゃんと返事をしていたらプロになれたのかな?」というモヤモヤが消えず、やることは高校時代に戻ったんです。ひとりでビッグビートとかブレイクビーツを打ち込んで再現するっていう。そんな中、地元でラップをやってる人たちにトラックを作れる奴がいると伝わったらしく、そのラッパーからトラック制作の依頼がきたんです。そのときに初めて、お金をいただいてそのアーティストが欲しがっている音楽を作るということをしました。

――誰かに楽曲を提供するという道が再び拓き始めた。

小倉:そういう活動をしていたら、人づてにミュージシャンの友達が増えていって、一緒にユニットをやろうと誘ってくれた友人が現れたんです。その友人が歌詞とメロディを作って自分がアレンジをするJ-POPユニットを組んだんですが、その人が行動派で二人で作った曲をネットにアップするようになったんです。それが現在所属している作家事務所の社長の耳に留まって、まずはそのユニットでデビューまで頑張ってみようということになりました。結局ユニットは解散しちゃうんですけど、解散してウジウジしている時期に、社長が「作家という仕事があるからやってみない?」って声をかけてくださって。それが作家としてひとりで動き出すきっかけになりました。

――そこからコンペに参加するようになり、2008年にSony Music Publishingに専業作家として所属されました。

小倉:自分から能動的に作家になろうとしたというよりは、良縁に引っ張られて作家になった感じです。積極的な友人とユニットを組んで、その友人が動くことできっかけをもらった。だから、友人であると同時に、自分の人生を変えた人でもあるんです。

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