東方神起、西野カナ、JY……山本加津彦の作家としての軌跡と信念 手がけた作品が繋いでいく音楽の縁

山本加津彦、作家としての信念

 東方神起、西野カナ、JYといった数多くの人気アーティストに楽曲を提供する一方、近年は東日本大震災の復興を願った牛来美佳による「いつかまた浪江の空を」を手掛けるなど、幅広い作家活動を展開する山本加津彦。自身がリーダーを務めるバンド、Ao-Nekoでの楽曲が評価され、2007年から本格的に楽曲提供を始めた彼は、ピアノの生演奏を主体にしたバラードに定評があるが、元々はピアノにまったく興味がなかったと語る。そんな山本がどのようにして作家への道を進むことになったのか。楽曲制作に対する姿勢や、音楽を通じた社会とのコミットについて聞いた。(猪又孝)

20歳の頃、ピアノの世界の扉が開いた

――プロフィールによると、19歳のときに独学でピアノを始められたそうですね。どのようなきっかけだったんでしょうか。

山本加津彦(以下、山本):当時浪人中だったんですが、高校時代に仲の良かった先生が大学の合格祝いにピアノの生演奏が聴けるレストランへ連れて行ってくれたんです。そこでたまたまジョン・レノンの「Love」を弾いていて。それまでピアノに興味を示したことなんてまったくなかったんですけど、その演奏を聴いたときに、こんなシンプルなメロディとピアノでグッとくるんだと思って、「弾きたい」と思ったんです。

――直感が働いたんですね。

山本:なんか弾けそうじゃないですか、「Love」は。それでカシオトーンを買いに行って、光るキーボードで練習し始めて。高校時代はバスケを辞めた後はグダグダしてて、浪人もしたし、人生をやり直そうかなとか、いろいろ考えていた1年間の中での出来事だったんですよ。そんな浪人生活の最後、心が潤いを求めているときに「Love」がスッと入ってきたんです。

――それまでに楽器経験はあったんですか?

山本:縦笛とかピアニカとか、小学校でやる程度です。ピアノは触ったことがなかったし、ベースとギターの違いもわからなかったレベルです。

――もともと山本さんは、どのような音楽を好んで聴いていたんですか?

山本:親父が映画音楽好きで、家のスピーカーもこだわったものを設置していて。こないだ母親にそのスピーカー売られちゃったんですけど(笑)、子供の頃にインストのオーケストラ系の映画音楽を聴いていたのを覚えています。その後、小学生になるとゲーム音楽を聴くようになりました。『ファイナルファンタジー』シリーズとか。ああいうものを映画音楽と近い感覚で聴いていて、J-POPとか洋楽とかの歌モノはほとんど聴いてなかったですね。

――大学進学のために地元の大阪から上京したあと、SOIL &  “PIMP”SESSIONSの丈青さんに師事されたそうですね。

山本:それまでピアノにはクラシック音楽のイメージしかなかったんです。でも、丈青さんの演奏をライブハウスで見たときに、ピアノってこんなカッコイイ楽器なんだ!って衝撃を受けたんです。狂ったように激しく演奏していて、こんなピアノがあるんだって。自分が知らなかったピアノの世界の扉が開いて「こっちだ!」と思って飛び込みました。それが20歳の頃でした。

――丈青さんとは、どのようにして繋がったんですか?

山本:ライブを見に行って最前列で「全然弾けないんですけど弟子にして下さい」とグイグイ話しかけて。それを繰り返しているうちに10回目くらいだったかな。終演後、「メシ食いに行くか?」って誘ってもらえて。そのとき一緒に行ったミュージシャンたちの前で「コイツ、今日から俺の弟子だから」と紹介してくれたんです。

――どのような弟子生活だったんですか?

山本:ピアノの蓋を開けに来いと。蓋を開けるだけでいいから、あとは横で音楽を聴いてろって。聴くのが一番の勉強になるからって言われました。丈青さんがSOILのメンバーになってからはキーボードを運んだりしましたけど、当初は丈青さんの家に行って、一緒に車で現場に行ってピアノの蓋を開けて横で聴く。その繰り返し。足を踏み入れたことのない世界だったから、横で演奏を聴いているだけでワクワクしていました。

――そうしてピアノにハマっていったんですね。

山本:あまりにもゼロからのスタートだったんで、ちょっとでも弾けるようになるとすごく嬉しかったんです。赤ちゃんが言葉を覚えていくような感じ。のめり込んでいきました。

――当時、将来の道はどのように考えていましたか? たとえばピアニストになりたいとか、アーティストデビューしたいとか。

山本:プロになろうとか、仕事にしようとか、そういうことは考えてなかったです。ピアノが下手だったから修行したいという思いが強かったんです。修行を積み重ねてレベルアップしていくことに惹かれていました。退化していくんじゃなく進化していく。そういうものに人生を賭けてみたいなと思ったんです。

――ご自身がリーダーを務めるバンド、Ao-Nekoは、いつ頃、結成されたんですか?

山本:2002年か2003年です。上智大学の「SAfro FAmily」というゴスペルサークルに入っていたんですが、僕が大学3年生のときに1年生で面白い子が入ってきて。歌手というかコメディアンみたいな(笑)。それがボーカルの川島(葵)さんだったんです。

――ご自身で楽曲を作るようになったのはAo-Nekoがきっかけですか?

山本:その前に、川島さんを含めたサークル仲間と3人で北海道へ演奏の仕事を兼ねて旅行に行ったんです。そのときにゴスペルをやってくれと頼まれて。3人でゴスペルは厳しいし、英語より日本語の曲の方が伝わるんじゃないかと思って「シアワセカケラ」という曲をそれだけのために作ったんです。その曲の評判が良くて、自分が作った曲をやっていきたいなという気持ちが出てきて、Ao-Nekoを組み、オリジナル曲をやるようになったんです。

――当時はどのような音楽を作っていきたいと考えていましたか?

山本:それまでの流れを考えると、丈青さんの影響によるジャズとか、ゴスペルなどのブラックミュージックを目指すことも考えられたんですけど、川島さんはストレートな歌が似合うタイプだったんで、日本語が伝わるシンプルな曲を作った方がいいなと思ってAo-Nekoの曲を作っていました。それが後々の活動に繋がっていったんです。

――作家として最初の楽曲提供は、誰の何という曲だったんですか?

山本:リリースされた最初の曲は、ji ma maの「風便り」(2006年)です。その前に牧伊織さんというシンガーに何曲か提供していて、福岡のZeppに彼女のライブを観に行ったとき、2000人くらいの前で自分が作った曲を歌っているのを観たんです。それまでは自分の演奏で曲を届けることをモチベーションにしていたんですけど、客席で自分の曲を聴くのもこんなに感動するんだと思って。そのときに楽曲提供をしていくのもいいなと思ったんです。

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