山本真央樹、作品にかける情熱 ドラマー、クリエイターとしての活動からソロアルバムに至るまでの軌跡を語る

山本真央樹、作品にかける情熱

 1992年生まれの29歳。高校卒業後、バークリー音楽大学で学んで帰国すると同時に、20歳でセッションドラマーとして活動開始。その直後からアニメやアイドル、ゲーム関係等中心に作曲家・編曲家としての仕事もスタート。2014年からは若手凄腕プレイヤーが4人揃ったフュージョンバンドDEZOLVEを結成、これまでに5作のアルバムを発表、スタジオミュージシャンとして、国内はもちろん海外ツアーも行っている。そして2021年8月25日には初めてのソロアルバム『In My World』をリリース──と、「国内屈指のバカテクドラマー」「ポップな曲を幅広く書ける職業作曲家&編曲家」「フュージョンという音楽に今新たにスポットを当てるバンドのメンバー」「王道フュージョンから22分を超えるクラシックの大作までクリエイトするソロアーティスト」の4つの顔を持つのが、山本真央樹というクリエイターである。インタビューしたところ、何を聞いてもびっくりする答えしか返ってこない、「初めて会いました、こんなミュージシャン」と言いたくなる、いろんな意味で規格外の存在だった。(兵庫慎司)

自分で見つけた方が、自分のためになることの方が多かった

ーー山本さんの活動は、4つ軸がありますよね。ドラマーとして、作曲家・編曲家として、バンドマンとして、そして、1stアルバム『In My World』をリリースしたばかりのソロアーティストとして。

山本真央樹(以下、山本):はい。

ーーまず、ドラマーとしての始まりからうかがってもいいですか。

山本:僕は父親がプロのギタリストでして、音楽が小さい頃から身近にある環境だったんです。父親が車の中で、運転しながらハンドルをポコポコ叩いているのを、助手席で見ていて。真似してチャイルドシートを叩いたり、ダッシュボードを叩いたりしたら、すごく誉めてもらえて。なんかリズム感がよかったらしいんですよね。小さい頃って、誉めてもらえると、もっとやりたくなるじゃないですか。それがどんどん膨らんで、「叩くって楽しいな」ってなってきまして。それで9歳の時に、エレドラを買ってもらって、そこからもう、ずっと練習していました。「ドラマーになりたい」って小学校の文集に書いていたぐらいなので。

ーーギターには興味はなかったんですか?

山本:もちろん興味はあったんですけども、父親が見てると思うとイヤなんですよ。練習していて「そこはこうだよ」とか言われるのが、ちょっと悔しかったので。父親ができない楽器だけをやってみよう、と思って、ドラムと鍵盤と管楽器に触れるようになって。だから今でも、ギターやベースはまったく弾けないんです。

ーー鍵盤と管楽器の始まりは?

山本:吹奏楽部に入った中学校1年生の時に始めました。自分のパートは、中高6年間、打楽器だったんですけど。作曲をやる上で、独学で、鍵盤とかをやり始めた、という。

ーー独学? じゃあドラムもそうなんですか?

山本:ドラムもです。何の楽器も習っていないです。大学でバークリーには行ってるんですけど、色々な音楽に触れにいきたいという思いが強かったので、ドラムを習いにバークリーに行った感じではなかったです。

ーードラムって、ルーディメンツ(基礎奏法)の面で、最初にちょっとだけでも習うのと習わないのとで、全然違うじゃないですか。

山本:ルーディメンツとかは、いつの間にかできていましたね。譜面が読めないので、全部耳コピでやっていたんですけど。パラディドル(シングルストロークとダブルストロークを組み合わせて叩く奏法)とかも、いつの間にか叩けるようになっていて、あとで「あ、これ、パラディドルっていうんだ?」って知識を得ていく感じでした。

ーーエレドラを買ってもらった当時は、どんなものをコピーしていたんですか?

山本:その頃は、カシオペアとかT-SQUAREとかを、ずーっとコピーしてましたね。小学校3年生の時に、その2バンドのアルバムはほとんど全部コピーしました。あとは、海外のバンド、QUEENとか、It Bitesとか、Sparksとか。ブリティッシュロックばっかり聴いてました。

ーー小学生としては、変わり者ですね(笑)。

山本:まわりにはゼロでしたね。ひとりもいませんでした。どれも、父親が教えてくれて、聴いてたんですけど。

ーーで、どんな中学校・高校生活を経て、バークリーに辿り着くんですか?

山本:まず、吹奏楽部で学んだことといえば、楽譜の読み書き。あとはルーディメンツなど基礎的なこと、「今まで僕がやってたのは、8分音符っていうんだ」とか、「これは三連符っていうんだ」とかを、中学でようやく知るんですね。その後バークリーに行くことは、僕は一切考えてなくて。顧問と両親が行ったら? と言ったから行っただけで。正直あまり乗り気ではなかったですね(笑)。

ーーええっ!?

山本:僕は普通の高校生活を送っていたので、普通の大学に行きたかったんです。そこそこ勉強熱心な学校だったので、ずっと勉強していたんですけど。高校3年生になって、急に「バークリーに行け」って言われて、「じゃあ今までやってきた勉強はなんだったんだ!」ってなっちゃって。普通に大学に行って、大学を出てからドラマーになるつもりだったんです。

ーーしかし、顧問の先生まで「普通の大学よりバークリーに行け」って言うって、よっぽど「この子はミュージシャンとして可能性がある」と踏んだんでしょうね。

山本:でも僕、家が大好きで、日本から離れることがすごくイヤで。海外に住むなんて絶対ムリだと思っていたので、ずっと悩みに悩んで。で、親と約束をしたんですよ、「1年ならいいよ」って。それで、行って、1年で帰って来ました(笑)。

ーーでも、行ったら行ったで勉強になったとか、いい経験になったとかはありましたよね?

山本:まあ、そうですね。人生経験として、音楽的にも、生活的にも、海外のいろんな文化に触れられたっていう点ではよかった。授業でも、日本では絶対習わないような……南米の方に南米のパーカッションを習うとか。いろんな国の先生がいるので。本場のいろんなリズムを習える、バークリーメソッドのジャズ理論も学べるというのは、すごくいい経験でしたね。

ーー帰って来た時はまだ20歳とかですよね。そこからいきなりプロに?

山本:そうですね、ありがたいことに少しずつ話題にしてもらっていたようで。高校を出てバークリーに行った若手のドラマーがいる、みたいな感じで。それで、いろいろなプロのミュージシャンにお声がけいただいて、いろんなライブに出させていただいたりしました。

ーー最初はどんなジャンルの仕事が多かったんですか?

山本:劇伴のレコーディングだったり、あとはフュージョン・ジャズ系が主でしたね。

ーーそこからだんだん仕事の幅が広がっていったんですか?

山本:もともと、アニメとか、ゲームとか、ポップスも好きで。作曲もしていたので、作家同士のつながりがあったんですね。ドラムもやっているということで、「ちょっと叩いていただけませんか」って言われることが増えてきて。僕の好きだったコンテンツがあって、好きっていうことを発信し続けていたら、そこから「じゃあドラムお願いできませんか」みたいな感じで呼ばれる機会があったり。

ーー作曲家としては、どんなふうに始まったんでしょうか。

山本:作曲を始めたのは、中学の時なんですけど。クラシック、和声とか対位法の勉強を始めて、その頃からずっと──。

ーーそれも独学?

山本:独学です。いろんな吹奏楽のフルスコアを見て、それぞれの楽器がどういうふうに絡んでいるのか、とか。ポップスやインストものだったら、耳コピして、コードに対してどうメロディがあるのか、とかを勉強して。コード理論も、高校生から勉強し始めて、ポップス、歌もの、アニソンを書く練習をしたりしました。ちょうどボーカロイドが出た頃で、歌う人を探さなくてよくなったので、ポップスっぽい曲をいっぱい作ってみようと思って。それで、22歳の時に、ゲームの音楽の公募に出してみたら通って、いろんなところからお声がけいただくようになったんです。

ーー一貫して、誰かに習うよりも独学でやりたい、というところがあるんでしょうか?

山本:習いたい欲があんまりないのかもしれないですね。自分で見つけた方が、自分のためになるっていうことの方が、今まで多かったので。習うとイヤになっちゃわないかな、という思いもあります。

ーードラマーとしてプレイするだけじゃなくて、曲も作りたくなったのは、なんで……って言われても困るでしょうけど(笑)。

山本:なんでかはわからないんですけど、音楽が好きだったので、ちっちゃい頃からドラムだけをやる気はなかったと思うんですよね。ドラム以上に、楽曲を作ることへの興味の方が大きかったのかもしれないです。作曲の方法がわからないので、手を付けてなかっただけで。中学ぐらいから作曲法とかを学ぶようになったのは、必然かな、という感じです。

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