『毅の“カタリタガリ”』第2回
SUPER★DRAGON 古川毅、影響を受けた“歌詞”を語りまくる 2010年代以降に登場した3名の作風
■KOHH
もっとも尊敬するヒップホップアーティストというか、ロックスターというか、なんて言ったらいいのか……、もうジャンルじゃない、そのマインドと圧倒的なオリジナリティに惹かれました。KOHHさんはリリックを書くときに自分が普段から喋る言葉しか使わないとおっしゃっていたんですけど、何も包み隠さず、そのなかで韻もカッコよく踏んでいて独時のリズム感がある。音楽として唯一無二の生々しさと肉薄感があって、KOHHさんの曲を聴くモードに入ったときは、KOHHさん以外の曲は入ってこないんです。
〈またダッセー奴らがダッセー奴らとダッセー服着て
カッケーモノでもダッセーモノにしてる
カッケー奴らはカッケー奴らとカッケーことして
ダッセーモノでもカッケーモノに見せる〉
なかでもとりわけ繰り返し聴いた「FUCK SWAG」からの一節。少なくとも表現する立場にある人が前者じゃダメでしょって、思うんです。流行りの真似して消費されていくものには興味がないし、ぶっちゃけダサいと思う風潮はあるし、ダサいと思う人もいる。それは僕の経験不足や若気の至りだったんだって、後々気づくのかもしれないですけど、ある種のアンチテーゼが活動のエネルギーになっている部分は大いにあります。でも、その気持ちは対象を攻撃するためにあるわけじゃないし、ただグダグダ言っていても仕方がない。ちゃんと表現として作品のなかだけで伝わるものに昇華しないとそれこそダサい奴だし、小手先でこんなこと言ったら消費されるものそのものになってしまうわけで。それって、簡単なことじゃないけど、KOHHさんはてらうことなく生身の自分で勝負してそれを体現されていて、ほんとうに生き様そのものだし、誰にも真似できないと思います。
「貧乏なんて気にしない」にも、凄く感銘を受けました。先に述べたMr.Childrenの「擬態」で幸せについて考え直すようになった延長線上で響いた曲でもあります。ざっくり言えばこの2曲には近い部分があるんですけど、「擬態」は桜井和寿さんの豊かなバックボーンがあってこそ、「貧乏なんて気にしない」はKOHHさんの壮絶な生い立ちや環境があってこそ。そこが鮮明に表れているので、並べてみて感じることもたくさんあります。
〈大金持ちでも心の中が貧乏じゃ意味無い〉
ヒップホップは、ボースティングとして身にまとっている物を成功の証として言葉にすることもよくあるんですけど、それに対してこういうメッセージもある。そうやって表現の自由度が高まって可能性が広がっていくと思うんです。KOHHさんのリリックは、まず“人としてどうよ”って、いちばん大切なことを再確認、再考できて奮い立つ。僕はこの先もKOHHさんの曲をずっと聴いているんだろうなって、思います。