さだまさしは今この時代に音楽家として何を思うのかーー『存在理由~Raison d'être~』インタビュー

さだまさしが今この時代に思うこと

「柊の花」に隠されたモチーフ 小田和正や笑福亭鶴瓶との関係性も

さだ:音楽的なところで言えば、「柊の花」が軸になっていますね。去年の秋、澤和樹さん(東京藝術大学学長/バイオリニスト)と藝大の奏楽堂でコンサートをする機会があって。そのときにアルバム1曲目の「さだまさしの名によるワルツ」という曲を澤さんが書いてくださったんです。“さだ”をアルファベットで書くと、“SADA”ですよね。A(ラ)、D(レ)、A(ラ)には音階があるんですが、じつはSにも音階があって。ドイツでは、“半音上がった音”、“半音下がった音”にも名前が付いていて、S=(Es/エス)はミの♭(フラット)なんです。ミの♭とラを同時に鳴らすとすごく不安定な音になるんですが、それをモチーフにして1曲仕上げてくださって。(MASASHIの)Mという音はないんですが、「M=無で、休符にしました」と。

ーー面白いですね!

さだ:そうなんです。そのときのライブと同じように藝大の生徒のみなさんに演奏していただいて、アルバムにも入れようということになって。さらに「澤さん、僕の歌でもバイオリンを弾いてくれませんか?」と言ってみたら、「やります」と言ってくださいました。沢さんの名器“ガルネリ・デル・ジュス”が鳴ることを前提として書いたのが、「柊の花」なんです。素晴らしかったですね、澤さんの演奏は。技量はもちろん、音色も本当に美しくて、音楽をやる人間として、ときめく瞬間でした。子どものときの自分に「将来、藝大の学長がお前の歌でバイオリンを弾いてくれるぞ」と言いたいですよ。たぶん信用しないでしょうけど(笑)。

ーー(笑)。アルバムには他のアーティストに提供した楽曲のセルフカバーも収録されていますね。

さだ:そうなんです。いつもコンサートの合間にアルバムを制作していて、今回も3月、4月にアコースティックツアーを予定していたんです。アルバムの制作は2月だったから、スタッフが出来るだけ僕の負担を減らそうと、「他のアーティストに差し上げた歌を歌う気はないですか?」と提案してくれて。試しに歌ってみたら、「案外いいな」と思ったんです。ただ、難しかったですけどね(笑)。岩崎宏美に書いた曲(「残したい花について」)を歌ったときは、「宏美、上手いな」と思ったし(笑)、トワ・エ・モアに提供させてもらった「桜紅葉」を歌って「白鳥(英美子)さんはいい声だなあ」と。

ーー「奇跡の人」は関ジャニ∞に提供された楽曲です。歌の内容はもちろん、彼らが歌うことを想定しているわけですが、セルフカバーするにあたってはどんなことを意識していましたか?

さだ:客観的に歌わないといけないと思っています。僕のステージバンドの“さだ工務店”のメンバーに「やらないか?」と提案したら、みんなも大賛成で。「ここは俺に歌わせてよ」「ここは無理だな」なんて言いながら、楽しくやりました。関ジャニ∞になり切って(笑)。

ーーそして、2007年に放送された『クリスマスの約束』で制作された小田和正とのコラボレーション楽曲「たとえば」も。

さだ:「たとえば」は以前から「アルバムに収録してほしい」とリスナーからも望まれていた歌の一つなんです。ただ、小田さんと一緒に作った曲ですからね。僕から先に動くのは失礼だと思っていたし、小田さんも「さだを抜きにしては形にできない」と思っていたようで、なかなか実現しなかったんです。それがなぜか、このタイミングで小田さんも僕たちもTBSさんも「この曲をそのままにしておくのはダメだよね」ということになって。もともとテレビのライブ音源だし、作ったのが2007年で、音の作りが今とはだいぶ違うから、小田さんがミックスし直してくれたんです。それを(アルバムに収録されている)他の楽曲と違和感がないように、さらにリミックスさせてもらって。小田さんにも「もっと良くなったね」と言ってもらいました。

ーーお二人は70年代から交流があると思いますが、さださんにとって小田さんはどんな存在ですか?

さだ:オフコースは最初、小田さん、鈴木さん(鈴木康博)の二人組だったんですよ。大先輩だし、憧れていました。グレープの頃、オフコースと一緒に北海道でツアーを廻ったことがあるんです。オフコースの二人はギターも歌も上手くて、とにかく最高で、僕たちも彼らのライブを観るのが楽しみでした。当時、オフコースにはまだヒット曲がなかったんです。グレープには「精霊流し」というヒット曲があったから、小田さんたちは頑として譲らず、「俺たちが先に歌う」と。あの二人が先に演奏すると、グレープは辛かったですねぇ。あとはもう笑いを取るしかない。

ーーさださんにとって小田さんは、尊敬すべき先輩アーティストだったと。

さだ:崇拝しかないですね。当時の事務所の大先輩が赤い鳥だったんですけど、赤い鳥とオフコースは、『第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』(1969年)の1位と2位なんです。関西地区で赤い鳥と1位を争ったバンドのドラムが村上"ポンタ"秀一さんだったり、とにかくすごい先輩たちなんです。小田さんの前に行くと、いまだにどこか緊張しますね。年上の方を呼び捨てするのは、泉谷しげると笑福亭鶴瓶だけなんで(笑)。

ーー(笑)そうなんですか?

さだ:泉谷さんを「泉谷!」と呼ぶのは、ステージの上で盛り上がったときだけですけどね。鶴瓶はずっと「鶴瓶」です(笑)。鶴瓶はね、グレープのファンだったんですよ。彼がまだ売れていない頃、僕にファンレターをくれたんです。コンサートで名古屋に行ったとき、飲んで帰ってきたら、ホテルのフロントに鶴瓶が手紙を置いていて。それを受け取って「どういう人?」って聞いたら、「落語家なんですけど、『ミッドナイト東海』という深夜番組で名古屋に来てるんですよ」と。まだ放送している時間だったから、タクシーで東海ラジオに行って、番組に押しかけたんですよ。そのときから仲良くなったんだけど、まあ、いい時代でしたね。

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