ヒップホップ漫画『少年イン・ザ・フッド』が目指すもの 「世界のラップゲームにエントリーする」

『少年イン・ザ・フッド』インタビュー

 SITEことGhetto Hollywoodが『週刊SPA!』にて連載中のヒップホップ漫画『少年・イン・ザ・フッド』が、その挑戦的な内容でシーンの話題をさらっている。Ghetto Hollywoodは、NORIKIYOが率いるラップグループ・SD JUNKSTAのメンバーで、PUNPEEの「タイムマシーンにのって」などヒップホップ作品のMV制作や、東京ブロンクス名義でのライター業など、幅広い分野で活躍している。『少年・イン・ザ・フッド』は、そんなGhetto Hollywoodが「昨今のミーハーなMCバトルブームに終止符を打つ、リアルでアンダーグラウンドでハードコアな青春グラフィティ巨編」を謳う作品だ。Ghetto Hollywood本人に、同作の狙いを聞いた。(編集部)【インタビューの最後で『少年イン・ザ・フッド』第三話まで全ページを公開!】

「多国籍な団地から理想的な文化が生まれる可能性もある」

Ghetto Hollywood。取材を行った部屋は、『少年イン・ザ・フッド』実写化を想定して作り上げたとのこと。

ーー『少年イン・ザ・フッド』はもともと、どんな構想から生まれたのですか?

SITE:10年以上前、Ghetto Hollywoodの名前でMVを撮る仕事をはじめた頃から、日本には『ワイルド・スタイル』(1982年)や『憎しみ』(1995年)のような王道的なヒップホップ映画やフッドムービーがないので、いつかそれを自分が作りたいという思いがずっとありました。2012年に友人でもあるサイプレス上野の「ヨコハマシカ feat.OZROSAURUS」という曲のMVを撮ったんですが、撮影の移動中に僕が映画を作りたいという話をしたら、オジロのMACCHOくんから外国籍の居住者が全体の二割近くを占める、神奈川県のいちょう団地の存在を教えてもらいました。早速調べてみると、いちょう団地の無国籍な雰囲気が、まさに自分が描きたい物語の舞台にぴったりハマった気がしたので、そこから「団地に住む大人しい少年が、ヒップホップをはじめとした沢山のカルチャーに触れて成長していく物語」という基本的なプロットが出来上がりました。

ーーいちょう団地とは、どんな団地なのでしょうか?

SITE:神奈川県の横浜市と大和市をまたいで川沿いに建っている巨大な団地で、実際に神奈川で一番大きい公営住宅です。元々の住人はほとんどが日本人だったのですが、80年代からインドシナ難民や日系の外国人労働者を中心に移り住んで、今では住民の約二割以上が外国人で、10カ国以上の国の人たちが住んでいます。最近では気軽に本格的なベトナム料理が楽しめる地域として一部で有名になっていたり、団地の祭りで多国籍な屋台が出たり、独特の共生文化が築かれてます。しかし、元々団地に住んでいた日本人居住者が高齢の人が多い反面、外国人居住者は日本に来てから生まれた若い世代も多かったりして、言語だけじゃなくてジェネレーションギャップもあり、まだまだ課題も多いみたいです。でも、団地だからこそ様々な人種や世代が混ざり合ったハイブリッドなコミュニティが生まれる可能性もあると思います。

ーーいちょう団地は、移民との共生を考える上でのモデルケースにもなりそうです。

SITE:そこまで大それた話ではないですけどね。いちょう団地はうちから電車で1時間かからない距離なので、背景の資料撮影のためによく通ってるんですが、いつも行く団地の脇のベトナム料理屋で周りの話に耳を傾けてると、団地に住んでる日本人のお婆さんと陽気なベトナム人のママのやりとりとか、ある意味昭和のご近所さん的な、この地域ならではのコミュニティがあるのが肌感覚でわかる。僕は98年からグラフィティを書き始めたんですが、2000年頃からグラフィティを通じて、神奈川に住んでいる日系ペルー人のグラフィティ・クルーの奴らとパーティーやたまり場で遊ぶようになったら、その頃から自分たちのノリも目に見えて変わったんですよね。それまではグラフィティをやるにしても、物音ひとつ立てずに忍者のようにこっそりと描いていたんだけれど、極端な話、ラテンの奴らはラジカセで音楽をかけて、ワインを飲みながらパーティみたいなノリで描いたりする。仲の良い奴と会った時も、握手はもちろんハグまでが基本。ラテンのやつらが持ち込んだパッションによって俺たちの遊び方は大きく変わったし、感情表現がすごく豊かになりました。色んなバックグラウンドを持つ人たちとの交流の中で人生が豊かになっていく様は、『少年イン・ザ・フッド』でも描きたいことです。

学生時代に描いたというイラスト。部屋はポスターやレコードジャケットで埋め尽くされている。
カーテンレールの上にはDVDの数々が。
DVDの棚。ヒップホップ映画やギャング映画の名作がずらり。
Company Flow『End To End Burners / Krazy Kings Too』など、マニア好みのレコードも。
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学生時代に描いたというイラスト。部屋はポスターやレコードジャケットで埋め尽くされている。
カーテンレールの上にはDVDの数々が。
DVDの棚。ヒップホップ映画やギャング映画の名作がずらり。
Company Flow『End To End Burners / Krazy Kings Too』など、マニア好みのレコードも。
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ーー『少年イン・ザ・フッド』の主人公・森村玄人(もりむらひろと)は、ご自身の姿を反映しているのですか?

SITE:そうと言えばそうなんですが、自伝的な物語というわけではなく、自分の中にある色んな要素を何人かに振り分けて描いています。主人公の玄人には漫画や映画ばっか観ていたヒップホップに出会う前の自分を重ねているし、グラフィティライターのMEOWはグラフィティをやっていた頃の経験がそのままキャラクターに反映されています。謎のジャンキー中年のドゥビさんのキャラは、自分とは真逆のタイプだけど、ある意味理想というか、秘めた欲望を煮詰めたようなキャラになってます。主人公の森村玄人という名前は、僕が19歳の時に50歳の若さで亡くなった父親のペンネームから取ってます。

 ちょっと父親の話をしても良いですか? 僕の父は生前はポルトガル語と英語の通訳や翻訳の仕事をしていたのですが、大麻の啓蒙書として有名な『マリファナ・ナウ』と『マリファナ・ハイ』(電子本ピコ第三書館販売)に文章を寄稿していたのを、父が死んだ後に母親に教えてもらって。父親は普通に真面目で厳しい人間だと思ってたので、すごく驚きました。父は小学生の頃に家族でブラジルに移住して、名門のサンパウロ大学に首席で入学したらしいんですが、在学中からトロピカリアという文化革命運動に参加して、反政府新聞を作ったりして、最終的にはドロップアウト気味に卒業して、カメラ片手に世界を放浪してた時に、たまたま帰ってきた日本で母親と出会って、僕と兄が生まれたそうです。僕も両親も日本人だけど、父親方の親戚は皆ブラジルだし、母親の姉は30年暮らしたアメリカでネイティブアメリカンの男性と結婚してインディアンネームを授かった結果、遠い親戚には有名な酋長がいたりとか、縁もあって色んな場面でディアスポラ(※元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ)について考える機会はこれまでにもあって。これから描く96年編では、ドゥビさんの元相方として日系ペルー人の、2パックみたいな生き方のキャラクターも登場させる予定なんですが、96年にペルーの駐日本大使公邸で4カ月に渡って占拠事件を起こした集団の名前が2パックの名前の由来でもあるトゥパックアマル革命運動だったり、偶然だけど興味深いことが多くて、ここら辺を後々ストーリーに絡めていけたらと思ってます。

ーードゥビは90年代のヒップホップカルチャーをリアルタイムで経験してきた人物として描かれています。作中では、当時のシーンの様子も描いていく予定ですか?

SITE:そうですね。一本のミックステープを巡って現代と96年を行ったり来たりする物語にしようと考えているので、96年は、2パックとビギー(ノトーリアス・B.I.G.)のビーフがストリートの話題だったり、日本では7月に『さんピンCAMP』が開催された年なので、僕が体験した実際の出来事を漫画のストーリーにも取り入れていきたいと思ってます。

「ラップは下手だけど、ラップゲームは結構得意」

ーーSITEさんの青春時代について、もう少し掘り下げて聞かせてください。SITEさんは相模原を拠点に活動するヒップホップ集団SDPのラップグループ・SD JUNKSTAのメンバーとしても活動していますが、フッドは相模原ではないんですよね?

SITE:フッドは生まれも育ちも渋谷区の幡ヶ谷で、世田谷にある都立高校に通ってました。高校3年の時に、新宿の美術予備校でグラフィティライターのKANE君と出会って、日本にもグラフィティのシーンがあることを教えてもらって、その影響で自分でもグラフィティを描き始めました。2000年頃にそのKANE君が同級生のラッパーやブレイクダンサーとか、周りにいた仲間を集めてSDP(Sag Down Posse)を立ち上げた頃にいつも一緒に遊んでたので、自然と参加することになりました。SD JUNKSTAはNORIKIYOとBRON-Kが作ったSDPの中のラップグループで、ライブではラッパーだけじゃなくてグラフィティライターもみんなステージに上がってたりしてゆるい感じだったので、遊んでるうちにいつの間にか加入してました。自分のラップは人前で披露するような腕前じゃなかったけど、グラフィティをきっかけに雑誌に文章を書くようになったり、A&RとしてCD作ったりしてるうちに、自分はラップは下手だけど、ラップゲームは結構得意なんじゃないのかなって思うようになりました。

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