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ボブ・ディランがフジロックに出演する意義ーー2018年はフェス文化の分岐点となる

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 2018年7月27日〜29日の3日間、新潟県・湯沢町 苗場スキー場にて開催される『フジロックフェスティバル』にボブ・ディランが初出演することが発表され、大きな話題を呼んでいる。また、今年は彼と同じくヘッドライナーとして、ケンドリック・ラマー、N.E.R.Dといった世界に誇るべき出演者が顔を揃えた。ボブ・ディランの来日とフジロックへの出演、さらに今年のフジロックのラインナップは、今後の日本の音楽シーンやフェス文化にどのような影響をもたらすのだろうか。ボブ・ディランの活動を長年追い続け、フェスカルチャーへの造詣も深い音楽評論家の田中宗一郎氏に話を聞いた。(編集部)

ボブ・ディランがフェスに出演する意義

ボブ・ディラン『ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ボブ・ディラン』

 アメリカを起点にポピュラーミュージックが世界中に大衆音楽として広がっていく中で、ボブ・ディランこそがもっともすぐれた作家なんですね。他の追随を許さない。これは僕の個人的な視点だけではないはずです。だからこそ、日本が世界に誇る音楽フェス『フジロックフェスティバル』にディランが出演するーーこの2018年にこの組み合わせが実現したことに関しては、とにかく素直に嬉しいです。

 ボブ・ディランの今回のブッキングというのは、おそらく何年も前から主催者であるスマッシュがアプローチし続けた上での成果なのではないでしょうか。過去に出演キャンセルになったこともある。だから、彼がノーベル文学賞を受賞したことを機に主催者が思い立ったという話ではないと思います。そもそも僕の持論からすると、ノーベル文学賞よりもボブ・ディランの方が圧倒的に偉いんですよ(笑)。どちらかと言うと、ノーベル賞は人類にとって悪とも呼べるような人や技術ーー技術自体が悪ではなくても、使い方によって悪に転化してしまう技術もありますよねーーに賞を与えてきたという歴史もある。一方のボブ・ディランは文化全体、人類全体に対して、常に何かしらの疑問や批評を投げかけてきた。そして、人や社会をその内側から進化させてきた。ノーベル賞が与えられた人々の功績はさておき、ノーベル賞自体とボブ・ディラン、どちらが人類に果たしてきた功績が大きいかと言えば、それは間違いなくディランです。

 あと、そもそもディランがフェスに出演すること自体が極めて珍しいんですよ。特に、音楽業界では常識となっている“アルバム・プロモーションのためのツアー”や“大型スタジアムでのライブ”とは無縁の人だから。今の彼はかつては『ネバーエンディングツアー』と呼ばれたりもした、小規模会場でのツアーをずっと続けていて、むしろその合間にレコードを作っている。だから、他のアーティストとは基本的な考え方がまったく違うんです。1974年に彼はThe Bandをバックバンドに従えて大規模なアリーナツアーを大成功させた。当時はいろんなアーティストがライブ会場の規模を拡大していった、ロックがビジネスとして巨大化した時代でもあったんですね。でも、その直後にディランはアリーナツアーをきっぱりと辞めてしまう。で、始めたのが『ローリング・サンダー・レヴュー』という、会場も決めず、行った先の街で会場をみつけて、ほぼ告知もせずにライブをするという形式のツアーだったんです。しかも、バンドメンバーも行く先々で増えたり減ったり。デヴィッド・ボウイのバンド、The Spiders from Marsにいたミック・ロンソンだったり、音楽畑ではないサム・シェパードだったり、街で見つけたバイオリニストをいきなりバンドに引き込んだりして。

 つまり、ボブ・ディランという人は産業としてのロックに全く興味をもっていないんですね。レコードを作り、世界中のいろんな街でライブをすること、自分自身の生業と役割にしか興味がないんです。例えば、The Rolling Stonesなら、お客さんが期待しているヒットパレードを演奏する。でも、ボブ・ディランはその時に自分がやりたい曲しかやらない。去年ずっと彼のツアーのセットリストをチェックしてたんですが、ベスト盤に入ってるような有名曲は数曲。なんとなくディランを知ってる人からしても、曲名がわかるのはぜいぜい5、6曲。しかも、基本的にどの曲もアレンジや歌い方がレコードとはまったく別物なんです。これってかなり異常ですよね(笑)。

 でも、彼にとっては奇をてらったわけでもなく、ごく当たり前のことなんです。実際、彼がやっていることを100年ほどのスパンで捉えれば、すべて納得できる。現代のミュージシャンの大半は、自分自身のポピュラリティやプロップスを保つため、自分が生活していくために、誰もが知っている曲をライブでやるのが当たり前だと思っている。でも、そのこと自体、実は異常なことだ、ただの資本主義リアリズムだ、そんな視点もありますよね。ディランの活動はそんなごく当たり前のことに気付かせてくれるんです。ボブ・ディランは、近代以前の吟遊詩人、20世紀初頭のフォークシンガー、1930年代から続くブルースシンガーといった伝統ーーつまり、人々の生活と音楽が直結していた時代の伝統を現代にアップデートしようとしている。「音楽を奏でること=今、人々に聴かせなければならないと自分が感じている曲を、今に則した形でやる」という、ごく当たり前ことを、ごく当たり前のようにただ実践してるだけなんです。

 ボブ・ディランは自分がやってることを決して説明しようとしない厄介な人なんですが、例えば、ノーベル文学賞受賞後の一連の騒動にしても、「音楽を作って演奏することが自分の生業」という彼の考え方からすると、これもごく当たり前のことをやってるだけなんです。大事なツアー中に連絡されても邪魔なだけじゃないですか。相手が世界一の権威だろうと、家族だろうと関係ない。何よりも大切な、自分自身の生業よりもプライオリティの低いことはすべて後回しにする、適当に手を抜く、というだけの話なんです。だって、彼のツアーは彼にしかやれないんだから。だから、異常なのは彼ではなく、むしろ異常なことを当たり前だと思い込んでる世の中の方なんですよ。

「歩く批評」ボブ・ディラン、近年の活動スタイル

 よくボブ・ディランのことを“メッセージシンガー”と呼ぶ人がいますけど、それは彼がやってきたあらゆる功績の100分の1程度のことでしかない。むしろ彼の存在や功績の偉大さを貶める呼び方だと思います。ディランの場合、作品だけでなく、あらゆる言動に批評性があり、明確なメッセージがある。言わば、「歩く批評」なんです。40年以上、ずっと彼の音楽を聞き続けてますが、どの曲にも未だに発見があるんですよ。決して誰一人として彼の音楽の本質を理解したり、言わんや消費することはできなかった。つくづく理想的な表現者だなと、実感が強まるばかりです。

 でも、特に日本だと、ボブ・ディラン=フォーク・リバイバルの気運と共に世界に発見された政治的なメッセージシンガー、フォークロックの始祖といった、50年前のイメージが固定化されてしまっている。でも彼はいつの時代も新しいことに挑戦してきました。2010年代に入ってからは、ほぼオリジナルの曲を作っていない。フランク・シナトラを筆頭に40年代前後のアメリカ大衆音楽のカバーばかり録音している。これも彼なりの批評だと思います。Spotifyはじめストリーミングサービスからは毎週何百曲もの新曲が吐き出されるわけじゃないですか。つまり、今の彼がやってることは「でも、そんな新しい曲なんて本当に必要あるのか?」という批評なんです。むしろ過去の財産を新たに作り替えて、今に伝えることの方が大切なんじゃないか。でも、本当なら産業やメディアがやるべきことをやらないから、代わりに彼がやっている。『Modern Times』(2006年)というアルバムのタイトルがわかりやすいと思うんですが、すべての言動を通じて、その時々の社会の奇妙さに対する疑問を問いかけ続けてきた。その活動と存在すべてにおいて、映画や文学といった他ジャンルも含め、20~21世紀をまたぐ時代におけるもっとも偉大な表現者のひとり、それがボブ・ディランだと思います。

      

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