荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響

 また、細野晴臣も1960年代後半、野上眞宏、柳田優らと六本木のディスコ/クラブによく踊りに行っていたという。

 現在と同じように、イデオローグな特別な音楽ファンをのぞき、ディスコ/クラブに出かけていた客は白い音楽と黒い音楽の区別はせず、ダンスを楽しんでいただろう。映画監督/実験映像作家/理論家の松本俊夫のマルチ・プロジェクション作品『つぶれかかった右眼のために』(1968年)に記録された当時の新宿の”踊り場“の様子ではダンスする客たちとそこでプレイされていたアレサ・フランクリンの「Respect」やThe Rolling Stonesの「Paint It, Black」も背景から聞こえてくる。

 ディスコ/クラブは新宿から六本木、渋谷、そして赤坂でもオープンしていく。後に渋谷のQFRONTや横浜のみなとみらいを手がけたプロデューサー・浜野安宏による赤坂の“大人を踊らせる”というコンセプトのMUGENでは、ライト・ショーが行われ、DJのプレイだけでなく、1970年代にはIKE & TINA TURNER、SAM & DAVE、B.B.キングといったアーティストの来日コンサートまでが開催されていた。客層は当時と現在までにいたる東京と日本のカルチャーの担い手たちを中心としていた。遊びはインプットであり、ダンスがそこにもあった。

 1960年代半ばから1970年代終わりの10年ほどの間、主流のダンス・ミュージックはロックンロールとリズム&ブルースからソウル、ファンク、そしてディスコへと変化していった。その最後尾に現れたのが、ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズの2人を中心としたChicだ。一方、同時代の日本ではフュージョンから“シティ・ポップ”が芽生え、それはやがて全盛を迎える予感に煌めきつつあった。

■荏開津広
執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

『東京/ブロンクス/HIPHOP』連載

第1回:ロックの終わりとラップの始まり
第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点
第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振
第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点
第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響
第6回:はっぴいえんど、闘争から辿るヒップホップ史

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