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荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第2回

荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点

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 日本にヒップホップをもたらしたのは、映画『ワイルド・スタイル』の公開(1983年10月)と、それに伴うキャスト・スタッフを中心とした総勢30名あまりのプロモーションのための来日だというのが定説である。

 1980年から2年を費やしてインディペンデントに制作された『ワイルド・スタイル』は、史上初のストリートのヒップホップの光景を捉えたドキュメンタリー/劇映画だ。しかし、実際には(今ではヒップホップとして知られている)ニューヨークはサウス・ブロンクスのストリートに起こっていた様々な現象ーー(ヒップホップの四大要素と後に名付けられる)ラップ、DJ、グラフィティ、そして、ブレイクダンスーーを、映画のなかで接ぎ合わせ(ヒップホップという)カルチャーを創りあげたといってもいい。

 ヒップホップは、メディアのありようと切り離せない。ヒップホップは、サウス・ブロンクスという、権力やエスタブリッシュメントによって存在すら完全に見捨てられ遺棄された地域を中心に生まれた(今でもYouTubeで見ることができる当時の様子をSouth Bronx、1982とでもタイプして検索してほしい。例えば、世界的に有名なストックフォト・エージェンシー、ゲッティ・イメージズが撮影した、ディストピアSF映画か市街戦の跡と見紛うサウス・ブロンクスの光景は衝撃的だ)。

 5つに分かれたニューヨークの地区全てをがたがたと音を響かせながら貫き運行する地下鉄の車両を、持たざる者の非合法なカンヴァス/支持体として見立て、グラフィティの書き手(ライター、と彼らは自称した)は自分たちの存在を知らしめるためにニックネームを大きくスプレイした。保険金のために放火され瓦礫と化したビルの間のストリートに敷いた段ボールや、焼け残ったマットレスを使って、Bボーイ(ブレイクする少年たち=本来はブレイクダンサーのこと)はパフォーマンスをした。彼らのブレイクダンスは、控えめにいってもぎりぎりの人間の尊厳の上に成立した身体表現である。

 『ワイルド・スタイル』の制作のために監督のチャーリー・エーハンが彼らの生態を捉えようとサウス・ブロンクスに持ち込んだカメラもまた例外にはならなかった。脚本を書いたグラフィティ・ライターのファブ・ファイブ・フレディの家族はジャズ・ミュージシャンのマックス・ローチと親しく、ローチが興味を持っていたDJやラッパーのクラブを舞台とした音楽的な出来事と、ヨーロッパのコレクターを中心とした美術界が関心を持ち始めていた自分たちの視覚的な表現と、ストリートのブレイクダンスといった部分的に重なってはいるが、異なるシーンを、曰く“街頭オペラ”(註1)として映像にパッケージできるような設定を工夫してプロットを書いた。そもそも“ヒップホップ”という単語自体が、『ワイルド・スタイル』の撮影を始めた時点ではなかった。こうして子供たちの行為は当事者によって命名され、メディアを通じて世界へ流通していった。かくしてそれはアイデンティティにも係っていくだろう。

 当時ブロンクスや貧困層の家族関係と家族そのものからなる暮らしの領域とその外側は隔絶していた(註2)。まるでSFの並行世界、もうひとつの世界ーーサウス・ブロンクスが瓦礫と化した原因は、ロバート・モーゼスという辣腕の都市計画家によるイギリスの19世紀起原の“田園都市構想”に倣っての1940年代からのニューヨーク都市計画の破綻の帰結である。大規模な高速道路の建設の失敗にくわえて、不動産業者は、客の収入や肌の色によって紹介する物件の地域を決めて人々を送り込み、低所得者用に作った大きなところは1万人規模の茶色の団地に彼らを押し込めていた。そもそも『ワイルド・スタイル』制作のきっかけもエーハンが前作の撮影中に人気のない団地の敷地内で見た光景から始まるーー「ハンドボール・コートの壁にスプレーで描かれた不思議に色彩豊かな壁画(中略)、そして気が付くとジェームス・ブラウンの“ソウル・パワー”が耳の潰れんばかりの音で鳴り響く地元の体育館でのダンス合戦・・・・」(註3)

  その外側で起きていたのは、べトナム戦争のなしくずしの終わりからのレーガノミクスへの移行であり、ポップ音楽の世界について書くならば、サイケデリアとしてのロックという想像の共同体の終焉だった。

 Jimi Hendrix、Led Zeppelin、King CrimsonにPink Floyd、幾つものプログレッシブ・ロック・バンドも、ロックは、人々に我を忘れさせる音楽のあの本質的な陶酔をサイケデリックと結びつけたものだ。文学的な風景の出現を歌詞によって呼び出し、長い(ギター)ソロで描写を行うという構造のロックは、モダニティにおいてのロマン主義的傾向の強い構築物だったといえる。ロックがたどり着き炙り出した問題についてここでは措かなくてはならないが、比較するとSex Pistolsやポスト・パンクのバンド群は反ロマン主義的なポスト/モダンなアイデアを取り入れ、1950年代のロックン・ロールにも似たダンスへの志向が彼らのリズムを変化させていった(パンクの頃からのヒット曲を時代順に聴いていくと興味深い)。

 例えばTalking Headsの最大の美学的功績のひとつは、どっちつかずともいえなくもないサイケデリック・ファンクであった最初の2枚のアルバムと比較して、『Remain in Light』で、モダニズムの意味と方向(註4)に沿って、可能な限りそのみずからの本質と特性である、アフリカン・ダイアスポラの産物としての(ポピュラー)音楽だけが言いうることに近づこうとした努力において“トランス(光の下に留まること=リメイン・イン・ライト)”へ向ったことだ。同時に制作されたのは、テレビとラジオを祈りの場にしてコンテンポラリーなアメリカ社会に生き延びていた無数のキリスト教の伝道師たちの説教のレコーディング(ファウンド・オブジェクト)と、アフリカン・リズムの音響によるコラージュ『My Life in the Bush of Ghosts』だと思い出してもいい。

 こうしたポスト・パンクの、ポスト/モダンな発想やサウンドと同期していた二つのグループの名が、当時のサウス・ブロンクスのトップDJでありヒップホップの創始者、Afrika Bambaataaのプレイリストにて言及されている。両者ともにポスト・パンクの大半のミュージシャンたちよりもやや長いキャリアを持ち、第二次世界大戦の敗戦国のバンドだった。それは、“発電所”という名前を持つデュッセルドルフのKraftwerkと、東京の黄色魔術音楽団こと、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏のYellow Magic Orchestraだった。

 ラルフ・ヒュッターとフロリアン・シュナイダーがKraftwerkの前身バンド、Organization(オルガニザツィオーン)として活動を始めたばかりだった1968年、YMOのコンセプト面での中心といわれる細野晴臣は松本隆とデモ曲を作っていた。1973年、細野がスワンプ・ドッグを思わせるファンクを試行した「薔薇と野獣」を含む名盤『HOSONO HOUSE』をリリースした年に、Kraftwerkは現代美術作家ギルバート&ジョージに魅了されおよそ反ロマン主義的で“クールな”ポートレートをジャケットにした『Ralf und Florian』(註5)を発表した。

 1975年、細野は沖縄を軸とした南島思想が全編を支えるアイデンティティとなる『トロピカル・ダンディー』をリリース。その頃、Kraftwerkは前年の『Autobahn』がアメリカで思わぬヒットをして生まれて初めてニューヨークの土を踏んでいた。驚くべきことに23分に渡るドイツの高速道路をテーマにしたタイトル曲がアメリカのFMラジオで人気を呼んだのだ。それに、19世紀からの歴史を誇り、70年代に人気の再燃していたローラー・スケート場でも実はこの曲はプレイされていたのだった。

 その2年後、Kraftwerkの同名のアルバムからのカット、反復するビートが呪術的でさえある汎ヨーロッパ主義を前面に押し出した「Trans-Europe Express」は、ラジオやテレビはもちろん、ニューヨークを含む全米のダウンタウンのローラー・スケート場ーーいわゆるローラー・ディスコーーを直撃し、息の長いヒット曲になる。一方YMOは、1980年、ワールド・ツアーの最中に黒人層に向けてのテレビ音楽番組『ソウル・トレイン』に出演し大好評を得た。赤い人民服を着たこの日本人たちが演奏したのは、南洋幻想の音像化であったマーティン・デニーのエキゾチック・サウンドのダンス・バージョンと、リズム&ブルースの大ヒット「Tighten Up」をエレクトリックなディスコにしたものだった。

      

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