荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点

 1977年、東京の大学で法律を勉強した後に日本で助監督をしていた葛井克亮は、ニューヨークで行われた映画『人間の証明』の撮影を通して、後のパートナー、フラン・ルーベルに出会った。アメリカではフランが監督し葛井が製作を行った映画『バッフィ/ザ・バンパイア・キラー』(1992年)と同名のテレビ番組でもよく知られている2人は、他にも1985年に設立した配給会社KUZUIエンタープライズ(現フォーマットメディア)を通して、今年の4月に亡くなったジョナサン・デミが監督したTalking Headsのコンサート映画『ストップ・メイキング・センス』(1985年)、ミニシアター系の名作として知られる映画『バグダッド・カフェ』(1987年)、過激なギャグでカルト的な人気を誇ったアニメ『サウスパーク』(1997年〜)の日本語字幕版などを配給してきた。

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 1982年、彼らはニューヨークの映画祭で『ワイルド・スタイル』という映画を観た。まだヒップホップという言葉もなかった時代だったが「1982年当時珍しい、強烈な熱気と見たことのないカルチャーに驚き」(※註1)、葛井は日本の映画会社に買い付けを勧め、なりゆき日本でのワールド・プレミアの宣伝プロデュース/コーディネートをすることになる。

 『ワイルド・スタイル』の監督をしたチャーリー・エーハンに会った彼らは「今までサウス・ブロンクスのストリートのキッズには縄張りがあってケンカが絶えなかったのが、地下鉄にグラフィティを描いたり、ラップやブレイクダンスで競い合うようになることで、暴力沙汰がなくなった」(※註2)と話を聞き感銘を受け、この新しいカルチャーを半ば強引に繋ぎ合わせた映画ーー自主制作ということもあり、それより他にやり方はなかったろうーーを日本に紹介し、その魅力を十全に伝えるためには、映画の出演者でもあった現実のサウス・ブロンクスでのラッパー、DJ、ブレイクダンサー、グラフィティ・ライターを東京に連れて行くしかないだろうと考えた。

 DJやラッパーにしてもまだレコードすらリリースしていない、ニューヨークの外では誰でもなかったことを考えると不可能とも思えるこのプランは、当時、既にピークを迎え、百貨店のみならずホテル、美術館、劇場、オルタナティブ・アート・スペース、輸入レコード店からプライベートブランド「無印良品」までを展開していた西武セゾン・グループの文化戦略の一環として、池袋と渋谷の西武百貨店で行われた『ニューヨーク展』でラップとDJのパフォーマンスやグラフィティ・アートの展示を持ち込むことによって実現する。

 すなわち、Cold Crush Brothers、Rock Steady Crew、Double Trouble、ビジー・ビー、Dストリート(Grandmixer D.ST)、ファブ・ファイブ・フレディ、パティ・アスター、ドンディ、ゼファー、フューチュラ、アフリカ・イスラム、クール・レディ・ルーザ・ブルー、レディ・ピンクなど総勢30数名が日本にやって来た。彼らは西武百貨店だけでなく“ツバキハウス”、“ピテカントロプスエレクトス”といった都内のクラブや大阪や京都でもパフォーマンスをした。また、その前年に放送開始されたばかりのテレビ番組『森田一義アワー笑っていいとも!』(フジテレビ系)にも出演した。

 葛井の興味のひとつに、サウス・ブロンクスの外側ということであれば、海外はおろかニューヨーク以外のアメリカの土地も陽の光も見たことなかったラッパーやDJ、ダンサーやライターを「原宿の竹の子族やロックンローラーに会わせたいということ」(※註3)があった。1970年代以来自動車の急増が問題となるにつれて、代々木公園脇の道路は、週末の間歩行者に解放されていた。そこに『東京のプリンスたち』の子供たちが集まるようになったのは1970年代末だ。カラフルな衣装を身につけた竹の子族は持参したラジカセで流すディスコミュージックに合わせて、一方レザージャケットなど1950年代のアメリカのファッションにインスパイアされた(ロックン)ローラー族はレトロなロックンロールに合わせ、歩行者天国でそれぞれたむろし、輪になってダンスしていた。当時、2000人以上の竹の子族とローラー族がそこに集い、彼ら目当ての見物人は多いときには10万人に及んだという。葛井たちはクレイジー・レッグスやビジー・ビー、それにレディ・ピンクを「代々木公園に連れていって、一緒に写真を」(※註4)撮った。フラン・ルーベル・葛井はその様子をこう憶い出す。

 「ロックンローラーたちのファッションがとても怖そうだったので、彼らが自分たちを脅かしている、ケンカが起こるのではとブロンクスのキッズは感じたようです。ビジー・ビーはTシャツをカットして、頭の上に載せて、ロックンローラーたちより自分が強く見せようと『ニューヨークのアーヤトッラー(イランの最高指導者)』だと言いました。そして、私たちが行った後、次の週から初めて原宿でブレイクダンスが始まったそうです」(※註5)

 原宿での出来事と経験を監督のチャーリー・エーハンは“文化の衝突”だと形容したといい、同時に葛井は「ニューヨークと東京のストリートカルチャーに何か共通点がある」(※註6)と感じていたともいう。

 スタイルとダンスをもって公共空間へと侵犯していくことが、サウス・ブロンクスと東京のストリートの子供たちの間に共通していた何かだ。

 スタイルとダンスが何を意味しているかは、ポップ音楽の時間のなか、1970年代のはじめにロックのイデオローグとしてLed ZeppelinやKing Crimsonらを書き立てていた主要なロック・ジャーナリズムが見失ったものだ。スタイルがパンクとヒップホップ種族にとってコミュニケーションの道具立てであったことは以前書いた。(第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点

 ポピュラー音楽研究者、ジェイソン・トインビーは「ワルツやポルカ、タンゴ」のような「ダンスと音楽を相関させる」伝統は「ロックンロールを境にして衰退し始め」、それは1970年代終わりのSex PistolsやThe Clashなど、パンクのポゴで部分的にようやく戻ってきたという。つまり、むしろロックだけが例外だったというのだ。少し面倒なのは、日本では、この断絶が実際にはロックともっと踊れない音楽としてのフォーク、もしくはロックと呼ばれる音楽のプレイヤー間での諍いとして現れたということだ。例えば、日本のポップ音楽史上有名な『日本語ロック論争』とは、“ダンス・ミュージック”と“そうでない音楽”派の対立だったと日本のヒップホップの創始者の1人、President BPMこと、近田春夫はいう。この『日本語ロック論争』についてはまた記す。

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