「少女A」を生んだ作詞家・売野雅勇に訊く、キャリアの転機と“昭和歌謡リバイバル”

 昭和最後の大物作詞家・売野雅勇が、デビュー35周年を総括する初の自著『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』(朝日新聞出版)を上梓した。先だって開催された記念コンサート『Fujiyama Paradise Tour「天国より野蛮」』に続く記念企画であり、このあと年末までに自身がプロデュースする2タイトルのCD、Max Lux『砂の果実 Fujiyama Paradise Tribute』と、ボックスセット『Masterpieces~PURE GOLD POPS~売野雅勇作品集「天国より野蛮」』もリリースされる。リアルサウンドでは、同著のエピソードを中心に話を訊きつつ、売野氏と同郷(栃木県足利市)である筆者の立場から知られざる素顔にもせまった。(若杉 実)

作詞家が語る昭和歌謡リバイバル

ーーライブにトリビュートアルバムに著書にと、35周年企画がめじろ押しですね。これらは以前より準備されていたのでしょうか。

売野雅勇(以下、売野):いいえ、まったくですよ。昨年の10月くらいだったと記憶していますが、突発的に決めました。僕自身は格好つけだから、「そんなのやらないよ」というタイプなんだけど(苦笑)。でも「やりましょうよ」と言ってくれたひとがいたから「じゃあやってみようか」という気持ちになりました。

ーーまず、昭和歌謡について訊かせてください。昨今はリバイバルの気配もありますが、その時代に作詞家として関わった当事者として、どのような考えをお持ちでしょうか。

売野:正直なところ高い関心があるわけではないですね。それ以前にリバイバルについて、わからない部分が多くて。いまの若いひとは本当に新鮮なものとして聴いているのかわからないし、僕らと同世代の人間が懐かしめるのかも疑問だし……。ただ、あの時代の強みとしては「だれもが知っている名曲」というものがいくつもありますよね。時代背景がすっと浮かんでくるようなものも少なくないし、それは素晴らしいものだと思います。

ーー売野さんの突出した作詞が印象的なのは、出自であるコピーライターとしてのセンスが洋楽経由で芽生えたような80年代ポップスですよね。つまり、それまでの昭和歌謡と90年代J-POPの狭間にあるものというか。ところが同著では、最近のリバイバルでも再評価が著しい、ちあきなおみさんがお好きだったりと、意外な一面も見せています。当時は邦楽もよく聴かれていたのですか?

売野:一部を除いてはゼロに等しいと思います。ただ、好きだったといえるのは矢沢永吉さんの「時間よ止まれ」、平山美紀さんの「真夏の出来事」、内山田洋とクール・ファイブの「そして、神戸」、あとは五木ひろしさんの「よこはま・たそがれ」。これらの曲に共通するのは、歌詞の良さなんです。いまでもぜんぶ覚えてますから。<汗をかいたグラス 罪なやつさ Ah, PACIFIC>(「時間よ止まれ」)は、パシフィック(太平洋)に対して「罪」って言っていいんだと面食らったし(笑)、<彼の車にのって>(「真夏の出来事」)では、当時は恋人のことを「彼氏」、ましてや「彼」なんて言わなかったので、これは新しいなと。そういう影響もあったりして、大学のときには真似ごとで作詞もしていたんです。でも、リスナーとしては洋楽を聴きまくっていましたね。当時は作詞家、物書きになりたいとは思ってなかったですが、漠然とセールスマンなどではない仕事はしたいという気持ちはありました。

ーー大学卒業後は、広告代理店に就職するわけですが。

売野:就職活動時には、ニッポン放送の音楽ディレクター職を受けて最終面接の5名に残ったり、CBSソニーも受けたけどダメでしたねえ。先ほど言ったように洋楽至上主義だったので、当時は邦楽部門は受けなかったんですけど。

ーーところがそういうアーティストも将来、作詞家として手がけるようになるわけで(笑)。「想像していたよりこの世界はおもしろい!」と思ったのはなぜでしょう。

売野:おそらくは大瀧詠一さんの影響、とくに『三ツ矢サイダー』のノベルティソング(「Cider'73」「Cider'74」「Cider'75」「Cider'77」「Cider'83」)やコミックソングに強い衝撃を受けたからだと思います。作詞の仕事は河合夕子さんの「東京チークガール」のお手伝いからはじめたんですけど、最初は自信がなくて。でも、大瀧さんのノベルティソング的な手法を分析して自分なりにやってみたら、どんどん面白いように書けました。それに、自分が書いたものを歌ってくれて、みんなが聴いてくれて、褒めてくれるようになって……そんな素晴らしいことってないじゃないですか(笑)。その次に手がけたシャネルズの「星くずのダンス・ホール」から始まるいくつかの作品は、ともかく鈴木雅之さんの声ですね、日本の声じゃなくてヴェルヴェット・ヴォイスなんだから、もうシビレまくってやりました。あれが自分の原点だと思ってます。それにシャネルズのスタッフ的な企画というかアイデアとかね、参加してましたから、面白くないとNG、アイデアがないと没という世界だから鍛えられました。僕の以降の活動の核を作ってくれたかな。
 それと、伊藤銀次さんだね。何と言っても。シャネルズがホームだとすると、アウェイなんだけど。プロデューサーが木崎賢治さんで、鍛えられたね。書く喜びも教わったしね。次第に「このまま続けていきたい職業だなぁ」と思ったし、そういう体験が一、二年と続いてから「少女A」(中森明菜)を作ったんです。

「少女A」誕生秘話

ーー1982年リリースで、売野さんの出世作にして、歌謡史上に残る名歌ですね。

売野:でも、最初はアイドルだからという意識もあり、積極的に書けなかったんです。ほかのアイドルを参考にしたんですけど、当時の自分が突っ張ってたこともあり、どうにも歌詞が薄っぺらく感じちゃって(笑)。でも、マネージャーから「好きなことを書けばいいんじゃないですか」とアドバイスをもらえて、思う存分やった結果、完成した歌詞なんです。

ーー同世代のアイドルソングを「薄っぺらく感じた」ということですが、歌謡曲のテイストで参考にしたものはありましたか?

売野:歌の本をいろいろ見ていて、唯一ピンときたのが阿木燿子さんの詞ですね。似ているというよりも「ここまで書けるんだ」と共感できるものでした。あとは矢沢さんの「時間よ止まれ」で歌詞を書いていた山川啓介さんですね。

ーー当時、新聞の投書欄に女子高生の感想文が掲載された。「私は不良でもないし学校ではクラス委員もしていて他人からは優等生と思われてるけど、私だけが知っている本当の自分の歌だと思った。これを不良少女の歌だと考えるのは自由だけど、間違えだと思う。私のような『少女A』が生きていることもわかってほしい(一部抜粋)」。売野さんはあとがきで「どんな評論家の健筆もこの女子高生の洞察力には歯が立たない」と評されています。

売野:泣きたいくらい感動しましたね。ほんとに書いてよかったと思えた瞬間でした。彼女の論も鋭いし、こんなふうに波及するんだと驚いたんです。僕が書いた歌詞だけど、もうその瞬間は、彼女のものになってる。それって素晴らしいことですよ。大衆音楽、ポピュラー・ミュージックの本質にいきなり触れた気がしました。

ーー売野さんの作詞のパターンはタイトルを決めてから書き出すことが多いそうですが。それに、最初の一文がつぎのことばを押し出すようにして詞が生まれるなど、総じてドライブ感がある。

売野:長いテーマで書いていくと、気付かないうちに自分の好きじゃない世界にいってしまうことがあるんです。これが僕です、という私小説的な歌詞になってしまうのが嫌なんです。

ーー同著を読んでいて意外だったのが、売野さんでもボツになった作品が多かったということ。ただ、推敲も苦じゃないそうですが。

売野:どちらかというと職人ぽい気質なので、作り上げていくことと、より研ぎ澄まされていくのが好きなんでしょうね。完成していくプロセスを楽しみたいし、ブラッシュアップしていくのが大好きで。だから、いまでもふと昔の作詞仕事について「あそこ、こういう風に直したいなぁ」と考えたりするんですよ……たとえばチェッカーズの「涙のリクエスト」とか。そういう衝動が働くね(苦笑)。

ーー「涙のリクエスト」は、映画『アメリカン・グラフィティ』にインスピレーションを受けながら完成させた楽曲だそうですね。その曲を今でも直したいということは、十代の気持ちを代弁するあの名歌を今でも書けるということですか。

売野:いや、それはちょっと難しいかな(笑)。あの頃の方が100%上手です。まず、書く姿勢が変わっちゃってますからね。

ーー90年代に入ってから書かれている中谷美紀さんの全作品が自分の代表作だと著で触れられている。「涙のリクエスト」からそこまで10年以上の時間がかかっています。

売野:下手なままだった、というわけではないんですけど、その時にしか出せない味が80年代の自分にはあって、いっぽうで完成度を高めたいという意思も自分のなかにはあって、90年代以降の仕事は後者の自分が前に出ているということなんだと思います。でも、それを突き詰めるほどに「自分の歌詞はどんどん難しくなっていないか?」ということに気づかされるんです。それはあまり良いことではないと思っているので、リセットしたいなと思ったときに蘇ったのが、大瀧さんとの仕事で得た経験でした。

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