『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む

「史観」という言葉がある。「唯物史観」であるとか「自虐史観」であるとか、音楽の場合だと「はっぴいえんど史観」であるとか、歴史に対するときに採られる見方や立場、価値判断のことだ。これが極端に偏ると、捏造に基づく偽史や、悪い意味での歴史修正主義に陥ったりするわけだが、無数にある史実のどれを選び、どう評価するかということだけでも、史観は自動的に生じてきてしまうものではある。学校の歴史教科書にも史観はあるし、たとえば、あらん限りの資料を渉猟し、できうる限りそれらをそのまま提示して、1968年という「政治の季節」を実証的に丸ごと描き出そうとした小熊英二の『1968』にだって史観は存在している。

 結局、人それぞれに史観はあり、史観の数だけ歴史はあるわけで、主観と客観は史観の強弱のグラデーションでしかないということもできるだろう。

 歴史を描こうとする者は、このグラデーションの幅のどこかに自分を置くことになるわけだが、本書はかなり主観に寄ったところに位置している。「はじめに」で「筆者なりの、あるひと繋がりの「物語」としての「歴史」を綴ってみようというのが、本書の企図」だと宣言されているので、この立場は意識的に選ばれたものだ。当然、小熊『1968』が意図したような全体性や実証性はほぼ自動的に放棄されている。というより、枝葉を徹底的に刈り込み、「物語」を際立たせることにこそ、むしろ狙いはあると見るべきだ。

「日本」でなく「ニッポン」である理由

 佐々木敦の「物語」とはどういうものか。

 一言でいうと、「リスナー型ミュージシャン」の出現から完成まで、そのインフラであった「Jポップ」の胚胎から終焉までの「物語」となる。

「リスナー型ミュージシャン」は本書を貫くキーワードのひとつで、「他者の音楽のインプットを自分という回路でプロセシングし、自分の音楽としてアウトプットすることが、音楽家としてのアイデンティティの根本にあるようなミュージシャン」であると定義されている。この定義はわかりやすいだろう。対置されているのは、もっぱら自己表現衝動で音楽をやっているタイプのミュージシャンである。

 登場人物として「物語」に召還されているのはむろん「リスナー型ミュージシャン」で、はっぴいえんど、YMO、渋谷系、小室哲哉、中田ヤスタカの5組が選ばれている。

 彼らのそれぞれの「物語」はディケイドで区切られ、4つの章で綴られていく。言い換えると、70年代から00年代までの各ディケイドを、いま名前をあげた人たちによって象徴している。そして、4つの章のちょうど真ん中にインタールードとして「Jポップ」の「物語」が置かれていて、前後が「Jポップ以前」「Jポップ以後」に分断されているという構成である。

 つまり、この本で語られる「ニッポンの音楽」とは、70年代から2010年代現在までの日本のポピュラー音楽、それもごく一部に焦点を絞り込んだものであり、60年代以前はすっぱり切り捨てられている。その取捨と切断の根拠となっているのが「Jポップ」であり、本書のタイトルが「日本」ではなく「ニッポン」とされている理由もそこにある。

 本書には前編というか姉妹編があり、著者が同じ講談社現代新書から2009年に上梓した『ニッポンの思想』がそうだが、時代をディケイドで区切る、時代を「切断」する、「物語」の終わりを「現在」に設定するといった手法はこの本から継承されたものだ(ただし『ニッポンの思想』では70年代以前が「切断」されていた。『ニッポンの思想』についても以前書評を書いたので参照されたし。参照:浅田彰に始まって、東浩紀に終わる…のか?~『ニッポンの思想』)。

 むろん、問題意識も通底している。

「『ニッポンの音楽』は、やはりこれも『ニッポンの思想』と同じように、あるひとつ(ながり)の「物語=歴史」が今や終わりつつあり、ではこの後はいったいどうなるのか、と問いかける手前で途切れている。その途絶こそが「現在」なのだ」

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