『親のための新しい音楽の教科書』は教科書にふさわしいか 先生、西洋音楽ってイケナイものなの?

 その後、大谷能生とやっている「ニッポンの音楽批評」というイベントで話題に出てdisっていたら(ちなみに大谷は「でもまあいい本ですよ」と褒めていた)、そうとは知らなかったのだが客席に版元であるサボテン書房の浜田淳氏が来ておられて、終了後に話したところ「批判でもいいから書いてほしい」といわれた。リアルサウンド編集部からもやっぱり取り上げてほしいという要望が出たので、うーん、気乗りがしないが、あらためて批判を前面に出して、こうして全面的に書き直している次第である。

 さて、この本の主題は、近代化以降の日本における西洋音楽の受容にまつわる問題と、受容があまりに性急だったがために今日まで尾を引いている音楽の土壌の歪みを指摘し、「もうすこし健全な音楽のあり方」の模索を示唆することにある。音楽教育に焦点が当てられているのは、明治期の西洋音楽の導入が教育から始められたためだ。

 明治において日本の急務は近代国家の体制を整えることだった。近代化は西洋化とほぼ同義だが、そこでの最重要課題は、それまで日本人には無縁だった「国家と国民」という意識を確立し植え付けることにあった。

 日本政府は国民教化に注力することになるのだが、そこでとりわけ重視されたのが音楽教育だった。具体的には西洋音楽を叩き込むための唱歌教育なのだが、当時の音楽教育は、単なる情操教育に留まらない、多面的な目的を備えたものだった。

 日本国民として持つべき意識をインストールし、身体の律し方を矯正し(その頃の日本人は行進もできなかった)、発声と発音をコントロールして標準化された言葉をしゃべれるようにすること。

 民衆を「国民」という枠に填めて社会を形成するためのツール、それが音楽教育にまず求められたことだったのである。

 本書は次々に、音楽教育と音楽にまつわる、当たり前と思われているけれど、よくよく考えるとおかしいような事柄を指摘していく。

 音楽は楽しいものと思い込まれているが本当か。幼稚園、保育園ではなぜ子供に怒鳴るような大声で歌わせるのか。子供用の音楽はなぜハ長調ばかりなのか。人前で下手な歌を歌ったり演奏したりするのが恥ずかしいのはなぜか。そもそも音楽がヘタクソであるとは何か。難しい音楽が偉いと思われているのはなぜか。音楽教育が情操によいというときの「情操」とは何か。

 こうしたことのことごとくは、明治にそれ以前の日本をリセットするように一気呵成に整えられた音楽教育と、音楽教育を支配してきた西洋近代音楽中心主義によってもたされた弊害なのだと著者は指弾していくのである。

相対主義とソーカル事件

 世界にはいろいろな文化があって、それらに優劣はないんだから、西洋中心主義的なものの見方や考え方は改められねばならない。

 本書を貫いているのはそういう考えだ。この考え方は文化相対主義というもので、それは全体の総括と背景の解説をした終章にも書かれている。文化相対主義はカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムなどへと展開していき、日本でも90年代に盛んになったものの、ソーカル事件(知らない人はググってね)を境に2000年代には下火となっていった印象がある。

 カルスタの特徴は何より、たいていの事象や現象を社会的に構築されたものと見なすところにある。むろん音楽もそうだ。これは相対主義とセットである。

 ソーカル事件はポストモダン思想を批判したものだというのが一般的な理解だと思われるが、ソーカルがでっち上げ論文を送り付けたのは、権威あるとされるカルチュラル・スタディーズの学術誌であり、ソーカル事件は背景に「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる論争を含み持っていた。

 サイエンス・ウォーズは一言でいうと相対主義批判である。ポストモダン~カルスタ系の相対主義が科学にまで及び「科学的真理は構築物に過ぎない」と言い出していたことに科学者たちがぶち切れたのである。ソーカルのでっち上げ論文は、量子力学の理論は社会的コンテクストによって決定されているのだという出鱈目な主張を、科学用語を適当に使ってポストモダン風に粉飾したものだった。

 ソーカル事件でポストモダン~カルスタは葬られたと評価する人もいたが、少なく見積もっても、ひとつのメルクマールになったことは間違いない。

 アルテスから『音楽のカルチュラル・スタディーズ』という論文集の翻訳が出たのは2011年のこと。原著の出版は2003年だ。監訳者は本書の著者である若尾裕である。監訳者あとがきで若尾は「筆者の感覚では、この書の新鮮な刺激にとんだ魅力はいまだ衰えていないように思えます」といっているのだが、この本が出たとき、正直「なぜ今頃カルスタ?」と思ったものだ。掲載されている論文も、総花的ではあるが新味があるとは言い難い。

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