『ANORA アノーラ』が描く“不完全な現実 鮮烈なラストシーンの意味を徹底考察

『ANORA アノーラ』ラストシーンの意味を考察

 一方で、イヴァンの側はどうだったのか。彼は一見、単なる最低な子どもとして描かれているように思えるが、作中の要素を拾っていくと、意外に複雑なパーソナリティを持っていることが分かる。親が強大な力を持っているがゆえに、彼は働く必要に迫られていない。彼の身の回りの世話をする者たちや多くの友人たちは、親の持つ財力を目当てにしているのであり、彼自身が築き上げたものは何もない。そして、間もなく彼は両親の待つロシアに定住し、その影響をより意識しながら生きることになるのだ。

 彼がアノーラと結婚したのは、単なる思いつきではなく、そうした自分の人生からの逃避であり、せめてもの反抗であったと考えられる。しかし彼には、それを全うするだけの度胸も、アノーラに対する義務を果たす責任感も持ち合わせていなかった。その点を、劇中の者たちは「ガキ」だと評価するのである。とはいえ、彼のアノーラへの想いが、全くの嘘であったと決めつけるのは早計かもしれない。なぜなら、恋愛のはじまりにおいて、自身の都合や欲望が優先されるというのは、むしろ当たり前であり、アノーラもまた、一種の打算をきっかけにイヴァンを選んでいるからだ。

 大事な局面で酔い潰れているイヴァンの姿には呆れるほかないのだが、この責められるべき行動の真意は、結局は親の威光に屈してしまう自分への失望と、その姿をアノーラに見られたくないという現実逃避だったと考えられる。つまり、彼は彼なりにアノーラに愛情を感じていたと思えるのである。イヴァンは“憎むべき傲慢な男性の象徴”というよりは、愛を求める悩める子どもといった存在として描かれている。そして彼は、嫌っていた両親の“冷たい価値観”に導かれ、アノーラを犠牲に、“悪しき大人”としての成長を見せ始める。これもまた、イヴァンにとっての“不完全な現実”だ。

 われわれ観客は、ディズニー映画やロマンティックな作品に触れてきたことで、“真実の愛”という概念を見慣れている。だから、自分の身を犠牲にできるほどの強い愛情でなくては偽物なのだと思いがちだ。しかしベイカー監督は、映画のなかに現実を表現しようとする作家だ。だからこそアノーラやイヴァン、イゴールなどの存在は、良くも悪くも不完全なものとして描かれている。だからといって、これらの登場人物の心情が偽物であるとはいえないはずだ。むしろ、これこそがリアリティであり、われわれの住む世界で日々おこなわれている人間の営みだといえる。

 さて、この考え方をベースに、最後の長回しを考えてみたい。アノーラがおばあちゃんからわずかなロシア語を受け継いだように、イゴールは自身のおばあちゃんの車で、アノーラを家まで送り届け、“手土産”を持たせる。何を思ったか、アノーラはエンジン音がなり続ける車内でイゴールにまたがって、ストリップクラブ流のサービスをおこなうと、しまいに泣き始めるのだ。この描写に面食らった観客は少なくないはずである。これを、セックスワーカーへの偏見を強める描写だと判断する人もいるだろう。アノーラはこのときいったい、何を考えていたのだろうか。

 この展開の謎は、アノーラが劇中で、イゴールを“同性愛者”だと言い、イゴールが不思議な顔をする描写がヒントとなっている。もちろん、罵倒の意味でそのような指摘をしたアノーラの言葉選びは間違っているが、一つには、邸宅内で揉み合いになった際に体を密着させたのにもかかわらず、イゴールが欲情しなかったというのは、性的な魅力を発揮する仕事をしてきた彼女にとって不本意な部分があったのだと考えられる。もちろん、実際にレイプを望んでいたわけではないはずだが、ここでのアノーラは、異性に興味がないので自分に欲情しなかったのだと指摘したいのである。

 同種の話は、二人で邸宅に泊まるというシチュエーションでも繰り返される。もしアルメニア系の相棒と一緒にいなかったのだとしたら、間違いなくレイプしたのだろうと。イゴールは、「俺はレイピストじゃない」と否定するが、イヴァンの愛情を失ったアノーラとしては、自分の魅力が彼を狂わせないことに安心しつつも、一方ではイラだちをおぼえている。なぜなら、同情されることを嫌う彼女は、彼の純粋な同情から親切にされているのだとは思いたくなかったからだ。一方、こういった性加害の要素を、登場人物の心情の表現に利用することが、同種の問題の矮小化に繋がるという批判があれば、ベイカー監督は真摯に受け止めるべきではあるだろう。

 このような心理的葛藤の末にアノーラは、おばあちゃんの車に乗っていて手土産を残してくれたイゴールに親近感や恩をおぼえたタイミングで、彼にサービスをすることを思いつき、イゴールが自分に性的な関心を持っていることを“直に確かめた”のだと判断することができるのだ。その後の涙は、わずかな安心から、これまでの心の痛みや、自分の力が現実を変えるところまではいかなかったことの悔しさを表出したのだと思われる。イゴールは、確かにはじめは同情からアノーラの側に心を寄せていたのかもしれない。しかしアノーラはたとえそうであったとしても、それを覆してみせようとした。イヴァンの愛が不完全であったことに打ちひしがれた彼女だが、逆にイゴールの親切心が不純で“不完全な同情”だとすることに、むしろ安堵をおぼえるのである。

 ここで多くの観客が思うのは、いわゆるセックスワーカーが、自分の心の拠りどころやプライドを性的な仕事に求めることを、好意的に受け止めるべきなのかという疑問なのではないか。だからこそ、このシーンに一種の侮蔑的なステレオタイプを感じとり、感動を受け取ることに後ろめたさや拒否感をおぼえてしまう。その判断は間違ってはいないのかもしれない。本作に違和感をおぼえた現役のセックスワーカーの声も存在するし、セックスワーカーたちの「自己決定権」を盾にして問題を覆い隠そうとする、卑怯な搾取者が存在していることも事実なのだ。

 だとしても、一人のセックスワーカーが自分の仕事に価値をおぼえ、心の拠りどころにしていたとして、そのこと自体を問題視することは誰もできないはずだ。それはその人の人格をおとしめることに直結しているからである。法的にグレーゾーンにあったり、ブラックな環境にあることも少なくない性産業が、社会的に問題が山積していることや、社会経験の少ない若者を搾取しているケースがあることは前提として、その上でアノーラのような一人の女性を力強く描き、そこに誇りを持つことを肯定することも必要なのではないか。

 常に改善する努力は求められるものの、現実的には、性産業のほとんどが健全化し、社会問題として扱われなくなるのには難しい面がある。そこに従事する人物が、いつまでも「社会問題」の一部として扱われ、「同情」の対象としてでなければ映画のなかで扱われないのだとすれば、それもまた一種のステレオタイプだといえるのではないか。そして、そちら側の意見を述べる現役のセックスワーカー従事者も存在する。

 そう考えれば、“現実の人物”としてベイカー監督がスクリーンに映し出すアノーラの最後の行為もまた、スクリーンを見つめる“ある視点”への反発や反抗の意味があったのではないかと思えるのである。本作『ANORA アノーラ』は、その意味においては、いくつかの問題を残しながらも、セックスワーカーを描く映画のなかで、一つの壁を破った作品だといえるのではないだろうか。

■公開情報
『ANORA アノーラ』
全国公開中
出演:マイキー・マディソン、マーク・エイデルシュテイン、ユーリー・ボリソフ、カレン・カラグリアン、ヴァチェ・トヴマシアン
監督・脚本・編集:ショーン・ベイカー
製作:ショーン・ベイカー、アレックス・ココ、サマンサ・クァン
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
2024年/アメリカ/カラー/シネスコ/5.1ch/138分/英語・ロシア語
©2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved. ©Universal Pictures
公式サイト:anora.jp
公式X(旧Twitter):@anora_jp

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