『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を徹底考察 作品に仕掛けられた“最大のジョーク”とは?
R指定作品として、初めて10億ドル以上の興行収入を記録したほどに大きなブームを巻き起こした、トッド・フィリップス監督作『ジョーカー』(2019年)。『バットマン』の象徴的なヴィランを主人公にしたスピンオフ映画でありながら、マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』(1976年)を思い起こさせるシリアスなタッチで、一人の孤独な男が悪に目覚めていくまでの足取りを追った、異色の一作である。
その続編として公開されたのが、凶行に走り都市を混乱の渦に陥れたジョーカーの後日談を描いた、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』だ。前作も物議を醸したが、今回はミュージカル要素をとり入れるとともに、ストーリー上でさらなる意外な展開を見せることで、これまで以上に賛否両論、議論を巻き起こす内容となった。
ここでは、そんな本作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の内容を掘り下げ、何を表現しているのかを突き止めていきたい。そして、最終的にこの作品が描いた“最大のジョーク”と、いまの時代へのメッセージが何だったのかを明らかにしたいと思う。
またしてもホアキン・フェニックス演じる、ジョーカーことアーサー・フレックは、『バットマン』作品でお馴染みの刑務所兼精神科病院「アーカム・アサイラム」を想起させる「アーカム州立病院」に収容され、前作で犯した罪を問われる裁判を待つ日々を送っていた。彼は所内でジョークを披露するなど、収容された当初こそ万能感が継続していたようだが、看守たちに高圧的な対応……つまりはイジメを受けたことで次第に気力を失い、やつれ果てている。
そんな絶望のなかでアーサーが出会うのが、ジョーカーの熱狂的ファンの女性リー・クインゼル(レディー・ガガ)だ。彼女もまた、『バットマン』のヴィランで、ジョーカーを慕うキャラクター、ハーレイ・クインを意識させる人物として登場する。
自分を崇拝するリーに出会ったことで、アーサーは自信を取り戻すとともに恋に落ち、死刑になるかもしれない運命が待ちうけるなか、幻想のなかで思わず歌い出し、本作はミュージカル映画の様相を呈していく。そして、そのナンバーの数々が、どことなく不気味で陰鬱に響いてくるのが本作の特徴だといえよう。
目を見張るのが、本作における表面的なスペクタクル、カタルシスの欠如である。終盤には大きな衝撃が描かれるものの、基本的に物語は、アーサーの裁判を中心とした法廷劇として綴られていく。それは、もちろん意図的なものだが、このような大作で、こういった試みを実行した、トッド・フィリップス監督の一種のパンク精神、インディーズ魂のようなものは、前作からさらに磨きがかかっている。
裁判のなかで明らかになっていくのは、アーサーのかつてのみじめな生活だ。みすぼらしい部屋で一緒に暮らしていた母親が自分に語っていたさまざまな話が嘘であったことや、アーサーが隣人の女性にストーカーまがいの行為をしていたことが白日のもとにさらされるなど、恥辱にまみれた弱者としての過去が語られていくことで、前作で社会に不満を持った人々を熱狂させた「ジョーカー」の虚飾が、次第に剥がされていくのである。
とはいえ、このようなことが裁判で述べられていく流れは、アーサーの弁護士(キャサリン・キーナー)による作戦でもあった。残忍な犯行をおこなったジョーカーは、アーサーのみじめな実像とはかけ離れた存在であり、人格が変貌する障害を持っていると主張することで、彼を死刑判決から救おうとしていたのだ。
弁護士を信頼し、その作戦に従うことで生き延びようとしていたアーサーだったが、自分が卑小な存在であることを突きつけられ続けるストレスと、自分を崇拝するリーの期待に応えたいという感情に突き動かされ、あろうことか命を助けようと奔走する弁護士を解任し、自分で弁護をおこなっていくという、常軌を逸した選択をしてしまう。そして裁判を一種のステージととらえ、ジョーカーとしてパフォーマンスを始めるのである。これが、本作におけるいささか盛り上がりに欠ける“ジョーカー復活”の顛末だ。
それはアーサーにとって危険な賭けだったが、命が助かることよりも、膨れ上がった自己愛やプライドを満足させるため、前作と同じように夢の世界へと入っていこうとする行動は、いかにも彼らしいといえるだろう。つまりアーサーは、悪に身を委ね、自分より大きな虚像を演じることで、「自分が弱く卑小である」という事実から逃避していたということだ。そしてそのことがまた、彼の卑小さをより際立たせているのである。
本作は、このような有り様を描くことで、いったい何を伝えようとしているのだろうか。一つには、前作で描いたストーリーが、一部の観客に誤解を与えた面があったことに対する、一種のけじめであると考えられる。その背景には、「インセル」だったり、日本では「弱者男性」などと言われるようになった存在が、思い通りにいかない社会に対して有害な行動をすることが目立ち、社会問題化してきた状況がある。
前作『ジョーカー』は、アーサーが悪に傾いていく流れを不気味なカタルシスとともに描くことで、ジョーカーを一種のカリスマ性を持ったダークヒーローと解釈できる余地を残しているところがある。アーサー同様に無名の人物たちが暴動を起こし、都市が混乱状態に陥る様は、現実における大統領選の結果に不満を持った人々による合衆国議会議事堂襲撃事件や、インセルによるインターネットでの誹謗中傷、迷惑行為を思わせる。
“何者かになりたい”という思いから、無名よりも“悪名”を馳せることで注目されたいと、動画サイトで迷惑行為、犯罪行為を配信する者が、世界規模で目立ってきている背景もある。さらに日本では、ハロウィンの日に列車の乗客を襲う事件が起こり、被告は裁判で「ジョーカーになりきろうと思った」と説明している経緯もある。
トッド・フィリップス監督としては、前作がそういったバランスで完成してしまったことや、思いがけず大ヒットを達成し、社会現象にまでなったことについて、当事者としてやはりさまざまなことを考えざるを得なくなったのではないか。その上で、前作の内容を部分的に軌道修正しなければならない義務感をおぼえたとしても不思議ではないだろう。