『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を徹底考察 作品に仕掛けられた“最大のジョーク”とは?

『ジョーカー2』のメッセージを徹底考察

 だが注意したいのは、続編である本作が、単に誤解を解消するためだけの作品にはなっていないという点である。もう一つ重要なのが、アーサーの“内的な戦い”という要素だ。本作の冒頭のアニメーションは、『ベルヴィル・ランデブー』(2002年)、『イリュージョニスト』(2010年)を手がけた、フランスの天才的なアニメーション監督シルヴァン・ショメが、担当しているが、そこで出現した“影=ジョーカーの虚像”が、アーサー本人を超越してしまうという描写に、それが顕著に表れている。

 前作から本作にかけて、「ジョーカー」という存在は、アーサーの実像とは関係のないところで支持を集め、思い込みや誤解などによって一人歩きし、アーサーが決してコントロールできないほどに強いものになってしまった。それにもかかわらずアーサーは、やはり自己顕示欲のために、無理のあるジョーカー役を、厚塗りの扮装によって演じることを選ぶのである。

 そんなアーサーをたじろがせるのが、前作にも登場したゲイリー(リー・ギル)が、裁判所で証言をするシチュエーションである。ゲイリーはジョーカーの恐ろしさにトラウマを抱え怯えながらも、その扮装の下にいるはずのアーサーに、「君は、みんなと違って僕のことをバカにしなかった優しい人じゃないか」と語りかける。ゲイリーの言う通り、アーサーには本来、優しい面や純粋な面もあったはずなのだ。

 アーサーを打ちのめす決定打となるのが、アーカムにおける看守たちの振る舞いである。裁判において看守の暴力を仄めかし、調子に乗るアーサーに、看守たちは怒りをおぼえ、陰湿にも陰でさまざまな肉体的、精神的暴力を加える。そして、その流れにおいて“ある悲劇”が起こってしまう。

 ここに至って、アーサーはついにジョーカーになりきることを諦めることになる。興味深いのは、それが彼本来の“優しさ”ゆえだということだ。裁判でジョーカーからアーサー本人に戻った彼は、糊塗されたものを全て拭い去り、本当のことを喋り始める。それはジョーカーを支持していた多くの人々を落胆させ、リーの心も離れさせてしまう。

 ここでは、アーサーが精神的に弱いために暴力や悲劇のストレスに屈したという見ることもできるが、じつはその解釈は違うのではないか。アーサーは、この土壇場において、ゲイリーが指摘したような自分の善性と対峙し、他人の悲劇への責任をおぼえたということだと理解できる。そして、彼は虚像を演じることをやめ、本来の卑小で弱い、等身大の自分を受け入れる。それは、弱さではなく“強さ”なのではないか。つまり本作では、アーサーの成長が描かれていると感じられるのである。

 弱いことは罪ではないし、本来恥ずかしいことでもない。酷薄な社会が彼を追いつめた部分も、確かにあるだろう。だからといって、そこで他人に危害を加えることで、同じような人々から称賛や支持を集め、一時有名になったとしても、それはその人自身が上等な存在になったわけではないだろう。逆に、たとえ誰からも注目されないとしても、少しでも社会に貢献するような行動をした方が、本人にとって成長のある、価値のある生き方なのではないか。

 アーサーはすでに前作で法律的にも道義的にも許されないことをしてしまっているが、本作で事実の解明に協力しようとした行動だけを見れば、それはせめてもの社会への貢献だと考えることができる。誰であれ、善い人間になる努力はできるのだ。

 皮肉なのは、このようにアーサーが成長したことで、逆にこれまでの彼の希望が全部崩れ去ってしまうという展開である。通常の娯楽映画は、間違いを認めて一歩を踏み出した主人公には優しい展開を与えてくれるものだ。アーサーは幸運によってリーとともに逃げるチャンスを与えられるが、劇中では娯楽映画のセオリーを無視して、真逆の仕打ちを受けることになる。この理不尽が、本作が仕掛けた“最大のジョーク”といえるのではないか。

 だとしても、アーサーの成長に意味がないとはいえないだろう。彼の身にはさらなる衝撃的な展開が待ち受けているが、その瞬間に彼は、あまりにも人間くさい望みを口にすることになる。誇大妄想的な考えを持っていたはずのアーサーだったが、じつのところ“平凡な幸せ”があれば、満足できていたのである。

 リーがアーサーを見限ったのは、まさにこの願望が露呈してしまったからだろう。リーにとって退屈な“普通の生き方”こそ、忌み嫌うものだからである。だからこそ彼女は、彼を愛するときに、アーサーの顔をメイクで隠そうとしたのだ。とどのつまり、リーが憧れ、支持者たちが熱狂した「ジョーカー」とは単なるイメージであり、そこに内面は不必要だということなのだ。誰でもいいのだから、ジョーカーになったところで、自分自身が評価されるわけではない。

 アーサーが望み、多くの人が真に人生に望んでいるのは、自分自身が評価され、自分自身が支持され、自分自身が愛されることではないのか。アーサーは、わずかでもそのチャンスがありながら、自分の境遇から一足跳びに大きな存在になろうとした。それは一見すると現状を打破する希望にも感じられるが、中身がともなっていなければ、結局は無理がたたってしまう。考えてみれば、至極当然な話だ。そして、その厳しさこそが紛れもない“現実”なのである。そういった意味で、自分自身としての一歩を踏み出したアーサーは本作において否定されながらも、部分的に祝福されているといえよう。

 『ジョーカー』、そして『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、2作を通して、一人の男の跳躍と凋落の姿を映し出し、夢と現実を表現し、そして“いま”の時代を描ききっている。そのように考えれば、この2部作はテーマを補い合い、セットで傑出したシリーズとして完成したと思えるのだ。そしてとくに本作の結末は、ここでジョーカーに象徴されている、内面のない価値に憧れる時代の風潮に、大きな“ノー”を突きつけている。人間はやはり、一歩一歩、努力して歩いていくしかない。その厳しい真実を伝えることは、ある意味“優しさ”だったのではないだろうか。

■公開情報
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
全国公開中
(日本語吹替版・字幕版同時上映 Dolby Cinema/ScreenX/4D/ULTRA 4DX/IMAX)
監督:トッド・フィリップス
出演:ホアキン・フェニックス、レディー・ガガ、ブレンダン・グリーソン、キャサリン・キーナー、ザジー・ビーツ
配給:ワーナー・ブラザース映画
©︎ & TM DC ©︎ 2024 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
IMAX(R) is a registered trademark of IMAX Corporation. Dolby Cinema is a registered trademark of Dolby Laboratories
公式サイト:JOKERMOVIE.JP

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