『唄う六人の女』竹野内豊&山田孝之は善悪の象徴だ 石橋義正監督が描く“真の美しさ”
来たる10月27日、石橋義正監督の約10年ぶりの最新作『唄う六人の女』が公開される。
「竹野内豊と山田孝之が、森に暮らす六人の美女たちによって囚われの身となる」
タイトルと大まかなストーリーを聞いてまず思い浮かべたのは、安部公房原作、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年)だ。こちらは、「男(岡田英次)が砂丘に住む女(岸田今日子)によって囚われの身となる」物語。男は、岸田今日子ひとりから逃げることすらできなかったというのに、今度の相手は六人。6倍だ。それはもう、無理なのではないか。
ちなみに『砂の女』での若き岸田今日子は、あなたの中の“岸田今日子観”が180度変わるくらいに魅力的であり、「男」が最終的に逃げることを放棄するのもよくわかる。
今作『唄う六人の女』の女性たちも、もちろん魅力的だ。物語の冒頭、優雅に羽をむしってゆっくりと「蝉」を食べる水川あさみがあまりにも不穏かつ魅惑的で、目が離せなくなってしまった。その瞬間から、ただスクリーンを眺めていただけの観客であったはずなのに、竹野内豊、山田孝之に続く三人目の男として、自分自身も囚われの身となってしまった。
囚われの身の二人。この主人公二人の凸凹ぶりが、この作品をさらに面白くしている。もともと正反対の性格をした、本来なら絶対に友達にならなさそうな二人だが、六人の謎の女たちから逃れるために手を組み、協力し合っているうちに徐々に友情が芽生え……ない。驚くほどに芽生えない。日本映画を代表する二人にバディを組ませればさぞ痛快な活劇になりそうなものだが、石橋義正はそんな単純な物語は選ばなかった。
まず、竹野内豊演じる萱島。40年以上交流のなかった父親の訃報に伴い、その父所有の山を売るため、まさに40年ぶりに山奥の生家に帰る。担当の土地開発業者・宇和島(山田孝之)の車に同乗した際に事故に遭い、目を覚ますと謎の六人の女たちに拘束されていた……。
基本的に、彼は“いい人”だ。理不尽に拉致されたというのに、物言わぬ六人の女たちとの意思疎通を図り、彼女たちを理解しようとする。なぜ自分はさらわれたのか。彼女たちは自分に何をしてほしいのか。その彼女たちの“願い”こそが、この一見不条理劇のような物語の大きなテーマである。思慮深い萱島が彼女たちの願いに気づいた時点から、物語は大きなうねりを見せる。
そして、山田孝之演じる宇和島。この宇和島がクセ者である。(まあ当然と言えば当然なのだが)拉致されたことに怒り狂い、逃げるためなら女性に危害を加えることも厭わない。また、痛めつける相手として、比較的おとなしそうな女性を選んでいる節すらある。主人公の一人であるため、がんばって好意的に見ようとはしたのだが、なかなか褒めるべきところが見つからない“クズ”である。
そもそも、“クセが強くうさん臭い男前”を演じさせたら、山田孝之は日本一の俳優である。代表的なところでは、『闇金ウシジマくん』シリーズの主人公・丑嶋馨が思い出される。原作漫画の丑嶋は、その長身からくる威圧感が特徴的であった。そのため、「実写版の丑嶋役は山田孝之」と聞いた時にまず懸念したことは、「決して長身ではない山田孝之にあの威圧感を出せるのか」という点だった。だが、その懸念は、まったくの杞憂であったことを思い知らされることとなる。
大きくないのにとてつもない威圧感を備えた山田・丑嶋は、なまじ見た目の大きさに頼らない分、より怖さが増幅されたように感じた。そして原作版・丑嶋の怖さも、体の大きさによるという、そんな単純なものではないことにも、気づかされた。