『唄う六人の女』妖艶で美的な描写の“必然性” 泉鏡花『高野聖』との重なりから考察

『唄う六人の女』なぜ妖艶で美的に描かれた?

 竹野内豊と山田孝之がダブル主演を務める『唄う六人の女』は、大自然に囲まれた日本家屋で目を覚ました二人の男が、六人の女の手によって監禁されていることに気づくところから物語が動き出す、異色のサスペンススリラーだ。

 この映画作品で驚かされるのは、圧倒的なオリジナリティだろう。現在の日本映画やドラマシリーズでは、なかなかお目にかかれない設定や予想がつかない展開、そして想像もできなかったテーマが次第に浮かび上がってくるという意味で、興味深い内容に仕上がっているのである。

 ここでは、不思議な雰囲気を持つ本作『唄う六人の女』の内容の奥にある魅力や難解な部分を、既存の作品を例に出しながら紐解いていきたいと思う。

 竹野内豊が演じるのは、都会に住むプロカメラマンの萱島という男性。ある日、その萱島のもとに、幼い子どもの頃に別れて以来会うことのなかった父親が亡くなったという知らせが届く。人里離れ自然に囲まれた場所にある実家に萱島が帰ってくると、山田孝之演じる、実家の土地を買いたいと申し出た宇和島という男性がやってくる。売買契約を交わした二人は、車で町へと向かう帰路の途中、山中の道路で大きな事故を起こしてしまうのだった。

 二人は目覚めると、古い日本家屋のなかにいることに気づく。そんな彼らを閉じ込めていたのは、和服に身を包んだ、言葉を発することのない六人の女性たちだ。複数の女たちが男の自由を奪うという構図は、同様のイメージシーンが鮮烈でスタイリッシュな、市川崑監督の『黒い十人の女』(1961年)を想起させるところがある。

 六人の女はそれぞれ、“刺す女”(水川あさみ)、“濡れる女”(アオイヤマダ)、“牙を剥く女”(萩原みのり)、“撒き散らす女”(服部樹咲)、“見つめる女”(桃果)、“包み込む女”(武田玲奈)と名付けられていることが発表されている。なぜ彼女たちが、このような役名で呼ばれるのかは、本作を観れば理解できるだろう。

 自由を奪われながらも、女たちに理解を示し始める萱島と、我慢の限界を超え、暴挙に及ぼうとする宇和島……果たして彼らは、この異様な場所から脱出することができるのだろうか。そしてそれぞれの行動が何を引き起こしていくのかも、物語の大きな焦点となっていくはずだ。

 ある男性が女性によって捕えられ、逃げられなくなるといった物語をシュールに描いた作品に、世界的に読み継がれている、安部公房の小説『砂の女』がある。自由を渇望する感情と、不自由に順応していこうとする感情……。人生で男性が直面する、相反した思いが、カリカチュアライズして描かれたことで、この小説は普遍的な価値を持つことになった。その要素の一部は、本作における萱島と宇和島という異なる性格の男性の行動にも見ることができる。

 だが、それよりも本作で印象的なのは、女たちが劇中で身をくねらして妖艶な姿を見せている部分だ。まるでそれが物語自体とは切り離されたものであるかのように、じっくりと「耽美的」に彼女たちが写し続けられるのである。この場面を観ることによってわれわれ観客は、本作が脱出サスペンスや『砂の女』のような人生のカリカチュアライズとは、また違う方向に進んでいるということに思い至ることになるのではないか。それでは、いったい何が表現されているのだろうか。

 ここで明治時代から昭和にかけて活躍した日本の文学者、泉鏡花の代表作といえる小説『高野聖』を紹介したい。この神秘的、超常的な世界を描く「幻想文学」としても高い評価を得ている小説の内容は、『砂の女』以上に、本作の物語の要素と多くが重なりを見せるのだ。

 『高野聖』に登場するのは、旅をしている若い僧。彼は旅のなかで、粗野で無礼な“薬売りの男”と出会うことになる。僧は薬売りの男に嫌悪感を覚えるが、男が山で危険な旧道に入っていくところを目撃すると、良心から彼を追っていくことを選択する。蛇や山蛭(やまびる)がいる森を抜けると、そこには妖艶な魅力を放つ女性が住む家があった。僧の心は次第に女性にとらえられてしまうが、彼女は超常的な力を持つ恐ろしい存在だったことが判明することになる……。

 この小説においても、人間性による“選択”が運命を分けることになるのは興味深い。傲慢な態度をとる薬売りの男と、他人を助けようとする心を持つ僧……この二人の違いも、本作における宇和島と萱島の役柄に投影することができる。

 『高野聖』は素直に読むと、悪い心を持ったり、安易に誘惑に乗ることを戒める教訓話だと受けとめることができる。だが泉鏡花がより表現したかったのは、正しい心を持っている僧でさえ道を誤ろうとする退廃的な姿を、日本的な伝承やアニミズム(さまざまなものに魂が宿っていると考える思想)とともに描くことであり、敬虔な僧侶が身を捨てるほど狂わされるといった妖しい魅力を強調し、読者を耽美的な世界へと誘うことだったのではないか。

 このように考えれば、多くの部分で要素が一致する本作に登場する六人の女たちが、物語の表面が要請する以上に美的に撮られている理由が理解できるのではないか。さらに注目すべきは、宇和島がそこに性的な要素を垣間見た一方で、萱島は全く別のものに魅せられているといった点だろう。それは彼の父親同様に、女たちに象徴された意外な正体が象徴するものに関係がありそうだ。

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