『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』が押し広げた映画の新たな可能性
2018年(日本の公開は2019年)の『スパイダーマン:スパイダーバース』は、アメリカの3DCGアニメーション業界におけるゲームチェンジャーだった。この映画は、フォトリアルを指向していたアメリカの3DCGにドローイングの新鮮な風を吹き込み、以降、『バッドガイズ』や『ミュータント・タートルズ』最新作など、フォトリアルの呪縛から放たれた3DCGアニメーションが多く登場するきっかけとなった。
3DCGの物理演算による奥行きある描画は、写真技術を基礎として発展した映画と相性が良かった。だが、そのためにその用途は現実と基準とするリアリズムの方向性へとやや縛られたきらいがある。『スパイダーバース』はそんな状況に一石を投じたわけだが、その続編『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』は、やや大袈裟に言うなら、映画のあり方そのものに多大なインパクトを与えることになるかもしれない。
現実とは異なる別様の世界の現出、それを支える技術の発展と、その技術を余すところなくフル活用するその姿勢。現実を基調としたリアリズムから抜け出した本作は、映画の新たな可能性を押し広げる可能性を秘めている。
現実をベースにしない映像の在り方
1930年代にドイツで活躍した映画批評家のルドルフ・アルンハイムは、映画が芸術になるためには、映像が現実の機械的な再生にすぎない状態を乗り越える必要があると語っていた。30年代といえば映画がトーキー化によって、よりリアリズムに近づこうとしている時期だ。40年代にはイタリアン・ネオリアリズムが登場し、その流れは決定的になっていく。
1938年の原稿『新ラオコーン』で、アルンハイムは、このように主張した。
映画は写真再生の絆から解放され、人間の純粋な作品、つまり、動く漫画や絵画になる時にこそ、その他の芸術の高みに到達することが可能となるであろうと、私は予測している。(『芸術としての映画』ルドルフ・アルンハイム、志賀信夫[訳]、P196、みすず書房)
こうした主張は忘れ去られたかに思われるが、映画にデジタル化の波が押し寄せ数十年が経過した今、この言葉はもう一度アクチュアルなものになっていると筆者は思う。アルンハイムの言う「動く漫画や絵画」という言葉にアニメーションを連想する人は多いだろう。だが、アルンハイムは必ずしもアニメーション技術を指してこのように言ったわけではなかった。映画はそもそも絵画的であり、奥行きの印象を変えることができ、時間や空間の連続性も創造しうる、絵画など既存の先行芸術と同じように、作り手がフレームの空間を作ることが重要だとした。だから、「動く漫画や絵画」になる時、映画は芸術になると言っているのだ。
アルンハイムがアニメーションのことを指したわけではないとはいえ、彼が指摘したその美学を追求してきたのは、まぎれもなくアニメーションである。アニメーションこそ、フレームにうつる全てのものを創造的意図で作りこむ表現手段であり、デジタル化によって、いわゆる実写映画もそのように作りこむことが前提になりつつある今、アルンハイムには非常に先見の明があったと言える。
『スパイダーバース』はまさに動く漫画だった。コミック的なエフェクトを多用し、各スパイダーマンが独立したテクスチャーの異なる絵柄で表現され、それが破綻せずにひとつの作品世界に収まっていた。
『アクロス・ザ・スパイダーバース』はさらにそのスタイルを推し進めた。今回舞台となるのは、マイルズ・モラレスの暮らすユニバースだけでなく、他のスパイダーマンが暮らす別世界も登場する。それぞれの世界は固有のテクスチャーで表現される。キャラクターだけでなく背景も含めた世界そのものを異なるテクスチャーで表現することで、マルチバースという新しい概念のリアリティに迫っている。
現実世界に生きる我々には、マルチバースは知覚できない。世界は自分が知覚しているような姿をしていると思いがちだが、本当にそうだろうか。マルチベースが本当に存在したとして、他のユニバースはどんな姿形をしているのかわからない。もしかしたら、根本的に異なった世界かもしれない。
実写映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』では、マルチバースの扉が開き3人のスパイダーマンが共演することになったが、3人とも同じような生身の人間の写実的テクスチャーを持つ存在として描かれた。3人の世界はそれぞれに微妙に異なるが、我々の生きる現実と似たような世界として描かれている。だが、異なる次元にある世界が自分の世界と同じような質感である保証など、本当はどこにもないのではないか。
『アクロス・ザ・スパイダーバース』は、そんな感覚に実態を与えてくれる。それぞれのユニバースは根本的に別世界だと描くために異なるテクスチャーで表現する。その結果、実写映画以上に、マルチバースには我々の想像を超えて様々な世界があるのだという強い説得力を生むことに成功している。これは、現実を基礎にしたリアリズムから解き放たれているからこそ可能になる表現だ。
『アクロス・ザ・スパイダーバース』は、さらに、キャラクターの心象風景を反映してショットごとに背景のテクスチャーを変化させることもある。いや、時にはショット単位どころか、さらに細かくフレームごとにテクスチャーを変化し表現へと昇華させるという意志がこの映画には宿っている。全てのショット、全てのフレームに表現の意志がある。
フレキシブルに、ショットごとにふさわしいテクスチャーのあり方を検討し、映画全体で統一的なテクスチャーを用いない、それでいて作品全体は作り手の統一された表現の意志が強く宿っている。本作はそういう映像のあり方を示しているのだ。驚くべき達成だ。