『ノック 終末の訪問者』にみるシャマランの作家性 監督にとっての映画づくりの意味とは
新作を発表する度に物議を醸してきたM・ナイト・シャマラン監督。『シックス・センス』(1999年)で大きくブレイクし、巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督作品を想起させる巧妙なサスペンス演出や、作品ごとに伏線を張り巡らせた意外な展開が期待を呼んだことで、広い層でファンを獲得し、超大作監督へと押し上げられていった、大きなスケールのクリエイターである。
しかし、大きな期待への反動から、作品によっては厳しい評価を受けるようにもなり、その手腕が疑問視された時期もあった。そこで、打って変わって低予算ホラーに挑戦した『ヴィジット』(2015年)をヒットさせ、実力を再び示し評価をすぐさま取り返したのはさすがだ。
その後、ブームとなっているアメコミヒーロー映画の要素をとり入れた異色サスペンスの連作を手がけ、興行面でも復調を遂げることとなった。とはいえ、またすぐに超大作の企画へと返り咲くことはせず、現在は『オールド』(2021年)、そしてここで紹介する新作『ノック 終末の訪問者』と、質の高い中小規模のサスペンス映画を監督しているというのが、M・ナイト・シャマランの現在地といえるだろう。
ここでは、そんなシャマラン新作『ノック 終末の訪問者』の内容を振り返りながら、この作品がシャマラン監督を理解する大きな助けになることを主張しつつ、監督にとっての映画づくりの意味を明らかにしていきたい。
ヒッチコック作品のポスターデザインなどを想起させるフォントが被さっていく、レトロなオープニングシーンから、本作は不穏な雰囲気を快調に演出し、シャマラン監督がのびのびと楽しく、観客に不安を与えようとしていることが、まず伝わってくるのが微笑ましい。
物語は、休暇を楽しんでいるゲイのカップル、エリックとアンドリュー、そしてまだ幼い養女ウェンの滞在している山小屋のドアを、レナード(デイヴ・バウティスタ)ら怪しい4人の男女がけたたましくノックするところから本格的に動き出す。ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の有名な冒頭が、“運命がドアをノックする音”を表現しているように、このノックは、おそろしい運命の到来を告げる象徴的な要素として配置される。
暴力を振るって山小屋に侵入した4人は、エリック、アンドリュー、ウェンの自由を奪う。ミヒャエル・ハネケ監督の問題作『ファニーゲーム』(1997年)を連想させられる、理不尽な状況である。そして4人はエリックらに向かって、人類はいまにも神の裁きによって滅ぼされていくところであるという、荒唐無稽な話を始める。まさに、新約聖書の「ヨハネの黙示録」そのままの人類の終末が、いまこのとき開始されているというのだ。
そして、それを止められるのはエリックたち3人の“選択”だけだとも4人は説明する。エリック、アンドリュー、ウェン自身が、このなかから1人を犠牲にするという選択をして殺害することで、人類の犠牲を止められるという啓示を受けたことで、この山小屋まで4人はやってきたというのである。もちろん、エリックたちはそんな常軌を逸した話を信じず、自由を奪われた状況を打開しようと奮闘する。だが、4人の言う人類の最期のタイムリミットに向けて、時間は刻々と過ぎていく……。
まさにシャマラン監督らしい、『サイン』(2002年)、『ヴィレッジ』(2004年)、『ハプニング』(2008年)などが組み合わされた筋書きだ。しかしこの物語は、意外にも近年のベストセラー小説を原作としているという。自作の脚本を自分で手がけ、作品の多くの要素を自分でコントロールてきたシャマラン監督としては珍しいことだが、この小説がいかにもシャマラン的であることを考えれば、その選択も理解できないことはない。
ホラー映画『キャビン』(2012年)や、『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』(2015年)が、『13日の金曜日』シリーズをはじめとする、惨劇の起こる山小屋を舞台としたホラージャンル作品の要素を解体し、メタフィジックな視点から、その魅力を観客に提示し直したことで、この種の舞台設定は、以前にも増して急速に陳腐化しコメディに近づいた感がある。
ここでシャマラン監督は、そういった流れに乗るのではなく、あくまで山小屋での惨劇を、やはりヒッチコックスタイルの、クラシカルな正統派サスペンスで盛り上げていく。『引き裂かれたカーテン』(1966年)の室内での過剰なバイオレンスシーンや、『サイコ』(1960年)の象徴といえるシャワーカーテンを利用した場面などは、撮っているシャマランの嬉々とした表情が鑑賞しながら思い浮かぶ箇所である。
さらに、いまわざわざ1990年代の機材を使って、味のある映像を撮ろうとする試みも面白いところである。これは古い時代の映像を表現しようとしている意図があるようだが、例えばフォーカス送り(撮影しながらピントを移動させる)の際に映像の挙動が乱れるように見える部分も含め、異様な状況を浮かび上がらせる効果を副次的に生んでいるところもある。このように娯楽映画を成立させながらも、いろいろな実験やオマージュを試していくようなリラックスした余裕が、いまのシャマラン監督にはあるのだ。