『冬薔薇』伊藤健太郎×阪本順治監督の濃密な対話 傷つくにつれあどけなくなる顔貌
「今の僕と仕事をすることは大きなリスクを伴うはずです。なぜ話を聞こうとしてくださったのですか?」
主演の伊藤健太郎が、阪本順治監督と初めて会った面談の席上、監督から最後に「何か聞きたいことある?」と問われた際に発した言葉である。阪本は次のように返したという。
「俺は火中の栗を拾う主義だ」
こんなやり取りを経て、伊藤健太郎の映画復帰第1作『冬薔薇』の製作が始動した。舞台は神奈川県の横須賀市、アメリカ軍基地の対岸。彼が演じるのはガット船の船長の息子・淳。オリジナル脚本である。阪本は当て書きで淳という主人公を生み出した。もちろん淳と伊藤はまったくの別人だが、阪本順治が今の伊藤健太郎にぜひともやらせたい存在として生み出した人物像だ。
ガット船の船長一家の物語というだけで、何かこう、観る側としては初めから降参する気分満々となる。埋め立て工事などで使う砂を運搬するガット船は、その巨大な船体で画面を威圧し、観る者を恐れさせる。ダンプカー10台分の砂をあっさりと受け止めてしまうスケールである。船長役の小林薫が船内のキッチンで船員のためにまかないの焼きそばを作って振る舞い、「どう? 焼きそば」などと語りかけるのを聞くと、ついつい小林薫の当たり役である『深夜食堂』のマスターを思い出してしまう。さらには船長の妻を余貴美子が演じているわけだから、『深夜食堂』のマスターとマスターに惚れる常連客のコンビである。キャスティングの背景にはそんな遊び心も念頭にあるのかもしれない。
ガット船で1本映画を作ってしまおうという阪本のアイデアは、『人類資金』(2013年)のロケ撮影でガット船を使ったときに強烈な印象を抱いてから温めていたものだという。港に浮かんでふわふわと揺れる巨大な鋼鉄。河川をすべる細長い艀(はしけ)といえば、フランス映画の名作『アタラント号』(ジャン・ヴィゴ監督/1934年)が思い出されるだろう。そういえば、石橋蓮司が演じる豪快な機関士・沖島はどこかしら『アタラント号』のミシェル・シモンが演じるジュール親父に似てはいまいか? 水、船、船員というだけで映画ファンの心は『アタラント号』のジャン・ヴィゴから『周遊する蒸気船』のジョン・フォードへ、『フィツカラルド』のヴェルナー・ヘルツォークへ、『長江 愛の詩』の楊超(ヤン・チャオ)へと、歴史の旅に乱れ飛ぶ。
12月2日にリリースされる『冬薔薇』Blu-ray&DVDでは、特典として伊藤健太郎と阪本順治監督のオーディオコメンタリーを副音声で聴くことができる。若き俳優と、多くの“問題作”を発表してきた監督が、1本の映画をタッグで作りながら築き上げた信頼関係が、部外者でしかない私たち受け手にもその一端を手に取るようにして分かる内容になっている。
例えば、小林薫と余貴美子の夫婦が自宅で夕食のパスタを食べるシーン。余貴美子自身の“ふだんからパスタは箸で食べています”という話が撮影現場でも採用されたという。そんな夫婦像を見ながら、2人はこう語る。
伊藤「映画って、人の人生の一部分を切り取ると監督はよくおっしゃるじゃないですか」
阪本「うん。途中から始まって途中で終わる」
伊藤「それを聞いたとき、あ、なるほどなと。そういう、ふだんなにげなくやっていることも大事になるんだよなとすごく思ったんです」
夫婦の息子・淳は地元の不良グループとつるんで中途半端に悪事を働き、どのように生きていくかという目標を見失っている。真から心を許せる友だちもなく、イキがって時間を浪費している。伊藤にとって、初めて尽くしの現場だったようだ。これまでなら闘いに強さを発揮する役しかやってこなかったのに、今回はけんかにへっぴり腰で参加し、大怪我をする。かと思うと、年増の女性をだまして遊びの金を巻き上げる。このような酷い、共感しにくい役にあえて挑戦することによって得るものとは何か。
阪本「あなたの当て書きで脚本を書いたといっても、あなたの性格に寄せているのではなくて、こういう役をあなたにやってほしいという前提で書いた。でもまあ俺自身、もし状況がちょっとこれに似たところに自分がいたとしたら、同じことをしてしまうかもしれない、同じ言葉を吐いてしまうかもしれないという。言葉にまではしなくても自分の中でそう思ってしまうかもしれないな、と」
状況次第で人は幸福に恵まれもするし、地獄を見ることもある。人格者にもクズにもなる。そんな寄るべない運命の行き違い、人と人の袖のすれ違い、さらには悲しきもたれ合いさえも、この映画は恥じ入ることなく直視する。コロナ禍で苦しむ時代だからこそ、観客に希望を抱かせる物語を届けるべきなのかもしれないが、阪本監督はあえてその道を選ばなかったのだという。
苦悩する一家の物語を、悲しみと孤立感の中でため息さえつけない人々の生きざまを、この今という時代に刻印しようとしたのかもしれない。冬薔薇(ふゆそうび)とは、真冬に花を咲かせるバラの品種。この映画では禍々しい事件や、身の切られるような裏切りや失望も描かれる。それでも登場人物たちは飄々として顔を上げ、今日この日を淡々と生きようとしている。つまり、冬薔薇とは人間そのもの。親が育てる子どもでもあり、誰かが愛する誰かのことでもある。余貴美子がバラに霧吹きで水をかけてやりながら語りかける。
「また、春にね」
淳はいくつかの困難に直面する。しかし、自分の進むべき道をどうしても見極めることができない。自分の道をすぐに見つける若者もいる一方、迷いさまよう若者だっている。そんな不甲斐なさにあって、逡巡を凝視する映画の視線は、冷たくも優しくもない。だが、心なしか、逆境を味わい、傷つくにしたがって、アップに映える淳の顔貌が逆に、あどけなさに近づいていくようにも見受けられる。それを指摘した監督の問いに対して伊藤は、強く意識したわけではないが、脚本を読んで役を作っていく中で意識していったのだと答える。役者のそうした微細な表情の変化、あるいはむしろ無表情への転化を見極めていくことも、映画を観ることの尽きぬ楽しみである。