『エルピス』が2022年に放送された宿命 渡辺あやの脚本を通して“人間”を知るために
「この国の死刑はいつ執行されるかも、順番も決まってないって知ってますか? お偉いさんの都合で、いつでもいいんですよ。何かよく、突然、まとめてされたりしてるでしょ。ごみでも捨てるみたいに」
木村弁護士(六角精児)が発したこの台詞が放送された翌週、まるでこの台詞の意味するところを実証するかのように、この国の法務大臣が「“死刑のハンコ”失言」を発し、その後更迭となった。
『エルピスー希望、あるいは災いー』(カンテレ・フジテレビ系)は、ことごとく「持ってる」ドラマだと感じる。本作は構想がスタートした2016年から様々な紆余曲折を経て、放送に至るまで6年の歳月を要した。この作品が、コロナ、戦争、そしてさまざまな重大事件が起こり、世界の分断が進み、メディア・報道のあり方が大きく問われた2022年という年に放送された「宿命」のようなものを感じずにはいられない。
スキャンダルが原因で看板キャスターの座を奪われ、万年低視聴率の深夜番組に送られた“落ち目”の女子アナ・浅川恵那(長澤まさみ)が、新人ADの岸本拓朗(眞栄田郷敦)と共に冤罪事件の真相を追い、「自分の価値」を見出していく物語――。第1話と、第2話の途中までは一見、恵那と拓朗が「冤罪を晴らす」という“使命”に出会い、ミッションを遂行しながら自分の「正しさ」をも証明していくという「破邪顕正のストーリー」が展開していきそうに見える。
しかし第2話終盤、木村弁護士の前で自らの仕事をふり返る恵那の独白シーンから、トーンが一変する。テレビ局の「嘘」を“飲み込まされ”ていたと思っていた恵那が、実は自分も視聴者を欺いていた、自発的に“飲み込んでいた”のだと自覚する。
さらに第3話で、恵那は連続殺人事件の被害者の遺族へのインタビューを撮ることに成功し、ここからどこか、「正義」に酔いしれたような表情を浮かべはじめる。そして、深夜バラエティ番組『フライデーボンボン』の自身が担当するコーナーで、遺族へのインタビューが収められた映像を、局長がNGを出したにもかかわらず独断で流してしまう。いちマスコミ人としての「贖罪」という動機だったはずが、いつの間にか目的がすり替わり「正義の暴走」側に回ってしまった。その刹那の恵那は、完全に「イッちゃった」目をしていた。
本作の脚本である渡辺あやは、いつでも、どの作品でも、どちらかが一方的な「善である」とか「悪である」という書き方をしていない。単純な二元論で語ることのできない「人間」や「世界」というものを、深く掘り下げる作家だ。NHK京都放送局制作の『ワンダーウォール』で自治寮の取り壊しを巡り大学側と戦う学生たちを描き、『今ここにある危機とぼくの好感度について』(NHK総合)では逆に、一枚岩ではない大学の内部事情を描いた。“朝ドラ”『カーネーション』(NHK総合)では、「死」の概念についてさえ、「果たして一方的に『悪い』ものと言えるのだろうか」という、フィクションの中だからこそできる問いを突きつけてきた。
そんな渡辺の書くドラマだ。単純な「破邪顕正ストーリー」になるわけがないと、わかっていたつもりでも、恵那の姿を通じた「あなたが『正義』だと思っているそれは、果たして本当に『正義』なのか」という問い、鋭く光る剣先を喉元に突きつけられ、息が苦しい。
人間というやっかいな生き物は両義的で、複雑で、多面的で、もっと言えば、歪(いびつ)だ。その「歪さ」を、「作り手の都合」で平たく成形したりしないから、渡辺作品は面白い。そしてこの脚本家はいつでも、登場人物を愛すればこそ、突き放し、苦しみを“配置”する。しかしそれは、彼らが新しい自分に生まれ変わるための苦しみだ。
「正しさ」を追い求めていたら、自分が作り出した一義的な「正しさ」の中に飲み込まれてしまう恵那。空気を読まないただの「ボンクラ」に見せかけて、過去に自らが犯した過ちに苦しみ続け、そして同時に誤魔化し続けている拓朗。報道局のエースとして出世し、官邸キャップにまで上り詰めた斎藤(鈴木亮平)は、第1話では恵那たちの参謀になってくれそうな空気も醸し出していたが、どうやら風向きが怪しい。きっと斎藤の内なる苦悩も、この後描かれていくことだろう。