『線は、僕を描く』が珍しい青春映画になった理由 一見地味な映像を通して描いたものとは
一方で、中国・唐の時代の絵画史家・張彦遠(ちょう・げんえん)は、水墨画について「墨に五彩あり」という格言を残している。さまざまな色の絵の具を混ぜていくと黒に近づいていくように、黒という色は、全ての色を包含した色だと言うこともできる。だからこそ、それを自在に操って色を感じさせることが、水墨画の醍醐味であり、腕の見せどころだといえる。本作の最後に表れる、“赤”色をあえて“黒”色で表現するのは、そのような水墨画にまつわる美術哲学に基づいているのだ。
そう、水墨画はもともと中国から伝来した文化なのである。本作ではそのことを紹介する場面がないので、日本古来の文化だと誤解してしまう観客もいるかもしれない。水墨画を題材として、その本質をさぐる内容であれば、その点は押さえておいてほしいところではあったが、言葉としては出てこなくても、確かにそのことを感じさせるのは、“生命”と“水墨画”を重ね合わせている箇所である。主人公の霜介は、失った生命を取り戻そうとするように、筆を走らせる。それが、作品を観る者に“絵が生きている”ように感じさせるのだ。
江口洋介が演じる西濱は、峰山のもとで庭の剪定や食事の支度など、師のあらゆる身の回りの世話をしている人物。彼が調理する食材に手を合わせて感謝する姿は、画家というよりも仏僧のようである。西濱の絵が見事に生きているように感じられるというのは、そのような生命への敬意があるからなのだろう。
古くから、水墨画と仏教、とりわけ中国でまず広まったとされる、菩提達磨が開祖といわれる禅宗との精神的な繋がりというのは指摘されてきたことだ。禅宗の特徴とは、他人の力を借りずに座禅によって自力で悟りをひらくことを目指すところにある。本作で描かれたのは、師匠の真似をするのでなく、技術をただ高めていくのでもなく、水墨画の本質はあくまで自分のなかにあるととらえ、自分自身と向き合いながら筆を動かしていく孤独な作業であるということだ。それを描く本作は、地味な展開、地味な構図になることが運命づけられているといえる。しかし、だからこそ本作は、映像的にも、物語や演技についても、他ではなかなか観ることのできない青春映画になったといえるのではないか。
経済が全ての中心となる社会では、芸術もしばしば経済的価値の面で評価され、投機の対象として値段で換算される。とりわけ日本では、高度経済成長の時代から、バブル崩壊を経て、経済低迷が続く現在まで、経済成長や富を築くことが重視されてきた。そして最近は、若い時の蓄財で余生を生き延びることが国民全体の課題となってしまっている。そんなときに、芸術的感性や、人生をどのように生きるか、自分はどのような存在なのかという哲学的な探求は、優先順位の低いナイーブな思考だと考えられるようになっている。
しかし、そういう時代だとしても、この世に存在する人間にとって、人間が存在する意味や生き方の意義を考えることは依然として大事なのではないのか。そうでなければ、社会は目先の金のことしか考えない者たちが増え、モラルを失っていくことになるのではないだろうか。
筆者は中国を旅行したときに、自然の絶景や古い寺を巡り、水墨画そのもののような風景に何度も出会い、水墨画が中国で生まれ発達した理由を知ることができた。そのなかで、水墨画の題材になることが多い「寒山拾得」の故事で有名な寒山寺を訪れた。
そこで最も印象に残ったのは、一般の市民が寺の仕事をしている若い仏僧に声をかけ、相談をする姿を何度も見られたことである。年配の人の投げかける言葉に、その半分の年にも満たないだろう僧は、相手への敬意を保ちながら慎重に言葉を返す。もちろんその内容は知る由もないし、日本の寺社でも同様の光景は見られるのかもしれないが、筆者はこの場所で初めて、寺が地域の人々の身近な存在であり、心の支えとなっていることを体感的に理解することができた。
俗世間の価値とは異なるところで、修行や精神的な探求を経た僧だから、他者にどう生きるのかを語りかけることができる。少なくとも、そう信じられているからこそ、人々は信頼し相談を持ちかけられるのだろう。これは、自分自身に向き合った末に描き出した水墨画と、その鑑賞者との関係にも似ているのではないか。霜介が生まれて初めて水墨画を真剣に観て感動し涙を流したのは、そして清原果耶が演じる千瑛が逆に霜介との出会いによって水墨画の本質に再び迫ることができたのは、人との触れ合いや墨の表現を通して、人の生き方と生き方が繋がり、感応し得るということを示しているといえよう。
そのように考えると、本作『線は、僕を描く』という映画自身も、また多くの映画作品も、この時代に損得とは別の価値観を、誰かの人生に投げかけるものになり得るといえる。ある人にとって一幅の水墨画がそうであるように、あの寒山寺の仏僧がそうであるように、映画は人の生き方を変える可能性があるはずなのだ。
■公開情報
映画『線は、僕を描く』
全国公開中
出演:横浜流星、清原果耶、細田佳央太、河合優実、矢島健一、夙川アトム、井上想良、富田靖子、江口洋介、三浦友和
原作:砥上裕將『線は、僕を描く』(講談社文庫)
監督:小泉徳宏
脚本:片岡翔、小泉徳宏
企画・プロデューサー:北島直明
音楽:横山克
配給:東宝
©︎砥上裕將/講談社 ©︎2022映画「線は、僕を描く」製作委員会
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