『GTO』反町隆史演じる鬼塚の変わらない“ダサさ” 情報社会の学園ドラマのゆくえ

熱意や信念、理想を掲げた教師が、問題を抱えた生徒たちと向き合い心を通わせ、そして導いていく。これは“学園ドラマ”というジャンルの定番パターンであり、『3年B組金八先生』(TBS系)から、1998年版『GTO』(カンテレ・フジテレビ系)を経て『ごくせん』(日本テレビ系)や『ROOKIES』(TBS系)など数多くの作品に共通してきたことだ。学校という誰もが必ず通ってくる身近な場所だからこそ、こうした“グレート”な教師たちの姿に感化され、教師を志した者がいたり、強い憧れを抱いたりするのであろう。

では7月からスタートした令和版『GTO』(カンテレ・フジテレビ系)ではどうか。第1話で私立誠進学園にやってきた鬼塚英吉(反町隆史)が学校のファーストインプレッションとして呟くように、そこは「学校というよりも会社」。ドラマである以上わかりやすくデフォルメされているとはいえ、現代の教育現場や“Z世代”と括られる子どもたちを取り巻く空気感のなかで、従来の“グレート”が通用するのかという、ある種の実験のようなものが試みられることになる。だからこそ、前回の連続ドラマから28年も経って、鬼塚がずっと掲げてきた“グレート・ティーチャー”とは何なのかを模索するという根幹が用意されていることも納得できる。

もっとも、『3年B組金八先生』においても、校内暴力が深刻な時代から陰湿ないじめ問題、ひいては生徒たちがどんどん内向的になっていく時代の変遷をシリーズとして追っていき、そのたびに戸惑いながらも程よく適応しつつ、一本の筋が通った信念を貫いていく教師の姿が描かれてきた。『GTO』の場合、1998年版の後にSP版と映画版が作られたが、そこから昨年のリバイバルまで(そのあいだにAKIRA主演によるリメイク版はあったとはいえ)四半世紀すっぽり抜け落ちており、その間の教育環境の変化や子どもたちを取り巻く社会の変化は著しいものがある。
そうした“過程”が不足しているのだから、視聴者側も1998年版のギラギラした鬼塚のイメージからアップデートのしようがなく、50歳を超えてガラケー(ガラホらしいが)を使って完全に時代に取り残された男の奮闘ぶりが妙に滑稽で空回りしているように見えてしまうのは仕方あるまい。とはいえ、鬼塚を誠進学園に引き入れた宮澤(工藤阿須加)のように、これまで描かれてこなかった期間を知る教え子を登場させ、1998年版から影響を受けつづけるマサル(山崎裕太)と現在の教え子たちの間にワンクッションを置くことで、かろうじて“過程”を補う策が図られているようにも見える。




















