『線は、僕を描く』が珍しい青春映画になった理由 一見地味な映像を通して描いたものとは
『線は、僕を描く』は、珍しいタイプの青春映画だ。水墨画を題材にしているというのももちろんだが、一つのジャンルに打ち込む内容でありながら派手な競技のシーンや駆け引きなどはなく、一部の見せ場を除いては、ひたすら主人公たちが紙に墨を乗せていく、ある意味で孤独な姿を映し出していく内容なのである。
また、自分が線を描くのではなく、自分が描いたはずの線の方が、じつは自分自身を描いていた……という『線は、僕を描く』というタイトルは、水墨画が複数の視点から、本質的にそのようなものであるということを示唆している。ここでは、そんな水墨画の奥深さに迫ろうとする本作が、その一見地味ともいえる映像を通して何を描いていたのかを、できるだけ深く考えていきたい。
横浜流星が演じるのは、辛い過去を背負ったことで、人生の意義も目的も見失ってしまった男子大学生・青山霜介だ。彼はあるとき、アルバイトで搬入した、ある水墨画を目の当たりにして、思わず涙を流してしまう。そして、そこで出会った著名な水墨の画家・篠田湖山(三浦友和)に弟子にならないかと誘われる。
初心者の霜介は、なぜ自分が選ばれたのか分からないまま、成り行きで水墨画の練習を始めることになる。しかし、湖山の孫娘である、将来を嘱望されている篠田千瑛(清原果耶)や、湖山の一番弟子である西濱湖峰(江口洋介)との出会いにも励まされ、修練の積み重ねにより絵の腕が上達するとともに、次第に生きる力を取り戻していく。
砥上裕將の小説を原作としたシンプルなストーリーを追っていくなかで、やはり特徴的だといえるのは、ギャラリーの前で水墨画の大作を描くようなシーン以外、エキサイティングといえるような場面が、ほとんど見られないところだ。殺風景なアパートの一室や、静かな時が流れる湖山の家屋のなかで、一心不乱に絵を描き続ける場面が印象に残る。
とくに、家屋を情緒豊かに撮りあげ、それをある種の精神的な境地まで高めるというのは、完璧主義と鋭い美意識で室内の構図をコントロールした小津安二郎監督をはじめ、古くからの日本映画の一つのテーマとなっていたところがある。そこに自分なりの感性で勝負できるというのは、本作の監督・小泉徳宏にとっても、充実した仕事だったのではないか。
そこで気づくのは、本作の画面の色調である。おそらくは水墨画を題材にしていることから、映画の画面自体の色調も、黒と白が際立つように撮影、編集されているように感じられる。そのような試みは衣装の色の選択にも見られ、カットによってはモノクロ映画だと感じられる瞬間もある。
かつて、日本映画でビジュアル的な冒険をしてきた市川崑監督と撮影の宮川一夫は、『おとうと』(1960年)で「銀残し」という手法を完成させ、彩度の低い渋みのある映像世界を表現することに成功した。デジタルが主流となった現在、画面の彩度をコントロールするなどの色調補正は、以前より格段に容易となっているが、あくまで大事なのは、市川崑監督のように作り手に確固たるビジョンがあるかという部分である。
その意味で、地味に感じられる“わび・さび”の世界を表現する本作は、このような色彩を表現する必然性が備わっている。さらには、水墨画が映るシーンや、白黒の牛が登場するシーンはもちろん、このようなモノクロの強調があることで、逆に画面のなかのカラフルな色彩も、より見栄えが良くなる。本作の題材自体が要請した、“モノクロームの美学”というのは、むしろ映画の色彩を際立たせ、色調の面で多くの映画と差別化することに寄与したといえるのではないか。