黒沢清と辿る“スパイ映画”の変遷 これからの『007』に期待すること

黒沢清と辿る「スパイ映画」の変遷

 『007』の次期ジェームズ・ボンド候補予想や、映画『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』撮影中のトム・クルーズからのメッセージに話題沸騰中の「スパイ映画」。今回、近年『散歩する侵略者』『スパイの妻〈劇場版〉』を手がけてきた黒沢清監督にこれまで見てきたスパイ映画の変遷、そして今後の楽しみについて話を聞いた。

『007』以前の「アクション映画」の素材としてスパイ

『007 ドクター・ノオ』(写真提供=Photofest/アフロ)

――「スパイ映画」というと、多くの人が『007』=ジェームズ・ボンドを思い浮かべるように思いますが、黒沢監督にとって「スパイ映画」と言ったら、どんなものになるでしょう?

黒沢清(以下、黒沢):1962年公開の『007 ドクター・ノオ』で、初めてスクリーンにジェームズ・ボンドが登場して以来、「スパイ」と言ったら「ジェームズ・ボンド」というイメージが一般的にあると思います。でも実はその前から「スパイ」を扱った映画は数多く存在していますよね。ヒッチコックはそういう映画をたくさん撮っていて、代表的なのが、『逃走迷路』(1942年)や『汚名』(1946年)や『引き裂かれたカーテン』(1966年)。あとフリッツ・ラングも『恐怖省』(1944年)などを撮っています。ただ、『007』以前の「スパイ」は決して主人公ではなくて、大体「敵」とか「悪者」なんですよね。

――確かに。

黒沢:そういった映画の主人公は、「スパイ」と戦う民間人の場合もあるし、ヒッチコックが何度かやったように、民間人がいつのまにかスパイ活動をやらされているような場合もあります。『汚名』にしろ『引き裂かれたカーテン』にしろ、「サスペンス」という括りの中で、「機密情報」とか「スパイ活動」が登場してくるわけです。そんな折にジェームズ・ボンドが最初だったかどうかはわかりませんが、いわゆる「職業スパイ」を主人公とした映画が1960年代に登場する。しかし、それはもうヒッチコックの「サスペンス」とはまったく違う、逃げて、ピストルを撃って、敵を気持ちよくやっつけたりする「アクション映画」の素材としてスパイの活躍を使っていた。そしてそれが大いにヒットしたわけです。

『引き裂かれたカーテン』(写真提供=Album/アフロ)

――なるほど。

黒沢:その背景には、スパイ行為が持つ、ある種の社会性や善悪といったものを、いったん切り離そうという発想があったんでしょうね。スパイ行為そのものを真面目に問うていくと、娯楽とはかけ離れた暗いものになっていくから。ジェームズ・ボンドって、もうどこの国の誰と戦っているのか、よくわからないところがあるじゃないですか。むしろ、そこはどうでもいいっていう(笑)。

――(笑)。一応、イギリスのスパイですけど、どこか実在の国に対してスパイ行為を働くと言うよりは、謎の組織と戦ったり……。

黒沢:そうですよね(笑)。まあしかし、そういうことは、実は昔からやっていることであって、これもヒッチコックがいちばん有名だと思います。社会的に重要そうな要素は、物語上は案外どうでもいい扱いになっていて、そこをある種の娯楽の保障にするというやり口です。

――いわゆる「マクガフィン(登場人物の動機付けを行うための作劇上の概念で、それが何であるかは深く問われない)」ですね。

黒沢:そうですね。国家間の核物質のやり取りとかが絡む非常にシリアスな題材であっても、それが実際のところ何なのかは、どうでもいいというか(笑)。むしろ、そこで生まれる「サスペンス」のほうが大事なのであって。その「どうでもよさ」と、どう折り合いをつけていくのか、その処理の仕方というところから、ジェームズ・ボンドのようなスパイが登場したのかもしれないですね。

――なるほど。

黒沢:言うなれば、それまであった「スパイもの」「諜報員もの」のある種のパロディとして、ジェームズ・ボンドが出てきた。それが当たってしまったから、その後もそのパロディ路線が、ずっと続いていった。そもそもがパロディだから、もう何をやってもいいし、ものすごい「機密情報」や「国家の陰謀」が出てきても、映画を観終わったときには、それが何であったかを忘れているようなところがあって(笑)。

――(笑)。確かに、今でこそ大作映画として高級なイメージのある『007』シリーズですが、もともとはスパイ映画の荒唐無稽なパロディというか、どこかB級映画っぽい要素が結構ありましたよね。

黒沢:ひょっとすると1960年代初期のイギリスならではの発想から出てきたのかもしれませんね。あの頃イギリスは、映画にしろ音楽にしろ、先行していたアメリカに対してのアンチ、あるいはパロディみたいなところで何かを生み出そうとしていたようです。僕は『007』シリーズを、リアルタイムで追っていなかったのですが、当時はあれをカッコ良いと思う人と、馬鹿げていると思う人たちの二手に分かれていて、それが大ヒットしたから、1960年代の末には、『007』シリーズ自体を完全にパロディ化したような「スパイ映画」が、結構作られていました。ジョセフ・ロージーの『唇からナイフ』(1966年)とか、ゴダールの『アルファビル』(1965年)とか、それらの映画は、スパイのような人が出てくるにもかかわらず、もう何を求めて何と戦っているのか、本人たちにもよくわからない。それでも上からの指令に従って動いていて、ますますわけがわからなくなっていく(笑)。一種のメタ・パロディですよね。

――スパイ映画のパロディだったはずの『007』シリーズの、さらにパロディのような作品が出てきたと。

黒沢:僕は、そういう映画から観始めたので、最初からジェームズ・ボンド的なスパイ映画に対して、どこか斜に構えているようなところがあった気がします。「あれは、ウソっぽいところが楽しいんだ」って感じていました。

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