庵野秀明が突きつける“現実”とは何か 『シン・ウルトラマン』に感じる虚構のカタルシス

『シン・ウルトラマン』虚構のカタルシス

 『シン・ウルトラマン』は、「空想特撮映画」と銘打たれている。空想であるとわざわざ宣言しているのだ。

 劇映画は基本的にどれも空想の産物だが、それを本物だと信じ込ませるために映画製作者たちはあらゆる手段を尽くす。例えば、半分以上創作であっても、着想を実際の事件に得たのならば、「Inspired by true events」とか銘打ったりして、観客に「本物かも」となるべく思わせようと腐心するものである。

 しかし、『シン・ウルトラマン』は最初から「これは空想ですよ」と自分から打ち明けている。変わった態度だ。

 この態度は、本作の企画立案者で総監修と脚本を務めた庵野秀明が「特撮」というものをどう捉えているかがよく表れている。特撮とは、本来は本物を使って撮影できない事柄を、できるだけリアルを求めるために使われる手法であるが、庵野氏の考える特撮の魅力は空想であることそのものにある。

 それは、庵野秀明がキャリアを通してずっと追求してきたものでもある。

「虚構と現実」のテーマを体現する特撮という手法

 庵野氏の作品は、「現実と虚構」がテーマとなる作品が多い。アニメ作品である『エヴァンゲリオン』シリーズでも、実写映画であってもそれは変わらない。「現実とは何か、虚構とは何か」を虚構の産物であるアニメ側からアプローチするか、現実を切り取る実写の側からアプローチするかの違いはあるが、どちらの手法であっても彼は虚実の境を目指して映像を作り上げる。

不思議なもので、実写1本やると、その実写のときには、逆に、生々しさを削っていくんですよ。できるだけうそ寒くして、不思議なものにする。全く逆のものを求めてしまう。
(『宮崎駿と庵野秀明(ロマンアルバム アニメージュスペシャル)』、P23、徳間書店、1998年6月刊行)

 アニメを作る時は生々しさを求めていたのに、いざその生の現実をカメラで切り取る時には逆の態度を取る。ここに庵野氏の独特の感性があるが、それは世代的な宿命として背負っていると同氏は、大島渚との対談で語っている。

大島監督の60年代の作品を観ると、空想と現実の交差というのが出てきますが、そのころ子どもだった僕らは、そのころ本当に空想と現実というのが交差していたわけです。子供のころはウルトラマンというのが本当にいるんじゃないか、あるいはいるというイメージを持ってたりしたんですね、怪獣がこの街を壊してくれたら面白いだろうなとか。そういう部分で育ってるので、現実感というのが基盤にないんですね、土着という意識ももうなくなっちゃっている。(『ユリイカ  特集大島渚2000』、P67、青土社、2000年1月刊行)

 ここで『ウルトラマン』というキーワードが出ているが、今回庵野氏はその空想と現実が交差するイメージを与えられた原点そのものに挑んだわけだ。

 『ウルトラマン』シリーズなどに代表される「特撮」というジャンル(この言葉がジャンル名であるかどうかは議論の必要があるが、とりあえずこの記事ではジャンル名として扱う)には、どんな魅力があると庵野氏は考えているのだろうか。それは、まさに虚構と現実が交錯する点だと語っている。

特撮のいいところは、なんといっても現実と空想の融合した世界を描けるところですね。これはアニメーションでは作れない世界です。アニメは全部つくりもので、最初から記号で構成されている世界です。
<中略>
特撮は、現実感の中にアニメと同じ発想の「現実にはないイメージ」を紛れ込ませることができるんですね。現実を切り取った空間の中に、現実ではない空想を融合させられるんです。その異種感覚というのはすごくいいなと。(『巨神兵東京に現る』2012年7月5日刊行、日本テレビ放送網株式会社、『館長庵野秀明  特撮博物館  ミニチュアで見る昭和平成の技』別冊、P10)

 昨年公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストカットがまさに現実の中に虚構を紛れ込ませた映像だった。25年をかけて『エヴァンゲリオン』シリーズを作り続けて、庵野氏があのラストカットにたどり着いた過程は、こちらの記事(『シン・エヴァ』ラストカットの奇妙さの正体とは 庵野秀明が追い続けた“虚構と現実”の境界)で詳細に分析したので興味ある人は読んでほしい。

 現実の中に虚構を紛れ込ませる特撮は、庵野氏の抱える「虚構と現実」というテーマに手法の観点から最も肉薄できるものだと言えるだろう。

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