『進撃の巨人』は世界の摂理が描かれているからこそ名作に 増加する“内と外”の二項対立
テレビアニメ『進撃の巨人』の物語が佳境をむかえている。完結編である『Final Season』のクライマックスが近づき、世界観を拡大させて、敵味方の構図がこれまで以上に乱れ、いよいよこの残酷な物語の全貌が明らかになろうとしている。
『進撃の巨人』には、何が描かれているのだろうか。ようやくこの終盤の展開でそれが見えてくる。
それは「人が争いを止められないメカニズム」そのものだ。争いという状況が否応なく訪れる世界の摂理が描かれているからこそ、この作品は名作だと言える。
「内と外」の二項対立
本作の敵対図式は複雑に入り組んでおり、主人公エレン・イェーガーが属する陣営は、必ずしも正義ではない。同時に彼らと敵対しているライナー陣営も必ずしも悪ではない。善と悪は高度に入れ替わり、時には主人公サイドが残忍な拷問に手を染めるなど、善悪で割り切れない単純な図式を否定することに本作の魅力があるというのは、多くの人が感じていることだろう。
だが、実は本作にも二項対立はある。だが、それはよくある善と悪の対立ではない。代わりに、本作が提示するのは「内と外」の対立だ。本作は「内と外」の対立は人類にとって不可避であることを強い説得力を持って描いている。
「内と外」を隔てるものとして、壁がある。エレン達は壁の中で安全に生活していた。壁の外には人類にとっての脅威、巨人がいる。最初にわかりやすく、「内と外」のわかりやすい対立構図が提示される。第1話でその壁が外からやってきた超大型巨人と鎧の巨人によって破壊される。
ここまでは単純だが、本作の作劇が巧みなのは、壁が三重になっている点だ。内側からウォール・シーナ、ウォール・ローゼ、ウォール・マリア。それぞれの壁に「内と外」がある。そして、それぞれの内と外で対立があることが序盤から示唆されている。
最も内奥にあるウォール・シーナの内側では、王や貴族が民の富を吸い上げ豪勢な暮らしをむさぼり、腐敗している。どうもこの世界では、壁の内側に行けばいくほど裕福な生活が保障されているようだ。壁の内側には利権があり、それが内側の人間と外側の人間の対立関係を生んでいる。わかりやすいのは兵団の構成だ。最も内側の壁に陣取る中央憲兵は、ウォール・シーナより外側で活動する他の兵団、調査兵団や駐屯兵団と対立関係にあった。
ウォール・マリアが破壊され、人々がウォール・ローゼに避難した時、多くのいざこざがあったことが示唆されている。ウォール・ローゼ内の住民からしてみれば、その外側から避難してきた連中は、自分たちの食い扶持を脅かす存在に見えただろう。このように、三重の壁は、それぞれの「内側」と「外側」の人間が対立せざるを得ない構造を生み出している。
「内と外」はどこにでもある。エレンたちのパラディ島の外にも。例えば、ライナーたちのマーレでは、巨人化能力を持つエルディア人は、収容区に「保護」されている。ここでは、地理的要因ではなく、人種的要因によって「内と外」が作られているわけだ。
「内と外」は言い換えると「仲間とそれ以外」ということだ。『進撃の巨人』で描かれる戦いは、ほとんどが「仲間を守るため」のものだ。壁外の巨人から人々を守るために戦う兵団、他国から国を守るために戦うマーレ……etc。
マーレのために戦うエルディア人たちは、収容区の家族のために戦っている。車力の巨人の力を持つピークは、「私はマーレを信じない。でも、ともに戦った仲間を信じる」から戦う。後半、狂信的になってゆくフロックすら、戦う動機はパラディ島を守ることだ。対立している者同士であっても、実はほとんどのキャラクターが、「仲間(内)を守る」という、同じ動機で戦っているのだ。ただ、その「仲間」の範囲が異なるだけで。
では、人類全てを滅ぼすために行動を起こしたエレンにとっての仲間(内)はなんなのか。
トロッコに乗りながらそのことを吐露するシーンがある。巨人化能力を持つ者は、13年で寿命を迎えるため、継承者を決めねばならない。エレンは進撃の巨人を同期の誰にも継がせないと言う、なぜなら、「お前らが大事だから」。この時、エレンはすでに自分の仲間たちにとっての敵が世界全体であることがわかっていたのだ。エレンのこの発言は、世界を取るか、仲間を取るかの瀬戸際で出てきた言葉だ。このシーンにトロッコ上が選ばれたのは、有名な「トロッコ問題」の暗喩にも見える。
世界を「内と外」に分けなければいいのではないかと思うだろう。だが、人間はほとんど無意識に「内と外」を分けている。ほとんどの人が日本人と外国人を分けているように。ウクライナ情勢で、欧米の報道機関が「青い目」をした人々の国で戦争が起きていることが信じられないと言ってしまったように(戦争のような野蛮な行為は中東とかアフリカで起きるものだと暗に言っていると批判された)。
本作は3重の壁のように、多層的に「内と外」を描くことによって、どこまで広げても人間は「内と外」を作ってしまうのだということを説得的に見せているのだ。