立川シネマシティ・遠山武志の“娯楽の設計”第45回
映画を映画館で観る意味とは? コロナ禍でより鮮明化した“他者”と“暗闇”の重要性
東京は立川にある独立系シネコン、【極上爆音上映】等で知られる“シネマシティ”の企画担当遠山がシネコンの仕事を紹介したり、映画館の未来を提案するこのコラム、第45回は“コロナ禍でより鮮明化した「映画を映画館で観る意味」”というテーマで。
配信サービスの加速度的な躍進
思考実験です。近未来、完全に映画館と同等の大画面と音響で、家庭でも映画を鑑賞可能な、一般的な収入で購入可能なガジェットが普及したとして、その時、映画館は消滅するか?
そんなことになったらもう映画館なんか行かない、という方も多いでしょうね。さらに条件を加えて、映画館よりも早く作品が配信されて、映画館よりもずっと安価に観られる、としましょう。これだとかなりの方が寝返りそうです。
それでも僕は、映画館は減少はするも、なくなりはしないだろう、と確信できます。今回はその理由を述べながら、そこから「映画を映画館で観る意味」を浮かび上がらせようと思います。
改めて言うまでもなく、映画業界はコロナ禍を受けて、大きなダメージを被った業種のひとつです。世界中で、撮影など多くの制作作業を中断せざるを得なくなり、映画館も休館を求められました。このことで、以前より確定的未来ではあった映画のネット配信サービスが加速度的に躍進し、映画館を守るための配信を劇場公開から遅らせるルールは、曖昧になりました。
配信サービスの躍進に関しては、いずれはこうなることはわかっていましたし、悪影響だけでなく逆に、例えば『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は配信サービスありきの、いわば配信連動型大ヒットであるという好例もあります。
配信サービスの普及が映画館でのヒットに繋がった例は、これまでもいくつかの作品で見られたわけですが、ここまでの久しぶりに「国民的」という冠をつけるにふさわしい大成功は、簡便に時間を問わずテレビシリーズを観られるインフラが整っていたことが大きな要因のひとつです。なにしろ元々は深夜アニメですから。
こういう配信と劇場の麗しき好例は、しかし極々稀ですし、今後も続いていくかどうかはわかりません。2020年にはまだ「映画は映画館で上映されるもの」という観念が残っていたので「劇場版」と冠がついていたことで、素直に劇場に足を運んでくださる方がいたのかもしれません。
しかしもうしばらく前から映画館で上映されない「映画」が多種の配信サービスにあふれていて、それも一流の監督、一流の俳優、多額の制作費を掛けたものであって、もはや「映画」の概念そのものが崩れ始めています。もう単に「動画」としたほうがわかりやすいのではないかと僕も思うくらいです。
映画館の魅力のひとつには「他者がいる」
「映画」の概念が消えるまで、もう秒読みかも知れません。映画業界の時間はそれくらい加速してしまいました。しかし、このコラムを読んでくださるような映画ファンの方なら、配信で観たもので、これ映画館で観たい、と思う作品がいくつもあったでしょう。
多くの方が「映画館で観たい」というものに、派手なアクションやSFや壮大なファンタジーなどを挙げるのではないかと思います。荘厳にそびえる城とか、大爆発とか、巨大な宇宙船は大スクリーンに映え、響く轟音は家庭では鳴らせないからです。これらは魅力としてわかりやすく、体感を得られやすく、これこそが映画館の醍醐味だと感じる方は多いでしょう。
まさに僕はこれまで、僕の仕事人生をかけて、音と映像のクオリティ、これを追求し続けてきました。世界中で、ここにしか映画館の活路はないとばかりに、様々な新しい音響システムや映像の方式が次々に生まれてきました。
しかし追求に追求を重ねて続けているからこそ、僕はその限界と狭小さに気づいてもいます。そもそも映画に映像や音響のクオリティを求める、という方はほんとうにわずかな割合しかいない、ということです。それは残念なことというより、そういうものでしょう。
例えばボウリング場でもクオリティの差はきっと歴然とあって、深くハマっている方や選手なら近所にあってもより良き遠方まで出かけることも厭わないでしょう。でも僕はそうしません。ボウリングにおけるクオリティとはいかなるものかを知らないからです。興味範囲外のことは誰でもそうなるでしょう。
シネマシティでも多くのお客様にウケるのは身体に響く重低音です。それが「音が良い/凄い」ということになってしまう。しかしこれは、いわば激辛料理です。料亭の料理に舌がヒリついてしばらく後を引くものが出てくるはずもありません。正しいクオリティというものは、知識と経験がなければそうそう判断できるものではありません。我々が時間をかけて調整して、真に素晴らしい音響になったと思ったものは「物足りない」と言われてしまうことも多々です。
映像も同じです。いくら大きくても、美麗でも、目は驚くほどすぐにそれに慣れてしまいます。それは逆に低いクオリティのものであってもです。たとえクオリティを知る方がごく少数でも、それをとことん突き詰める映画館が他に無いのなら、その小さなパイでもビジネスは成立します。僕等はそうして戦っていますが、これが全国で、本当の意味で浸透することは難しいでしょう。それを求めるお客様の数が少なすぎるのです。
映画館の価値が大きな映像と音響のクオリティだけにあるとしたら、そもそも美麗ヴィジュアルや迫力サウンドを要素に持たない作品は家で観ればいいということになります。果たしてそうでしょうか。
ミニシアターに足繁く通うような映画ファンの方は、例えば手持ちの小さなビデオカメラで撮ったドキュメンタリーや、音楽を廃して台詞も少ない、ただ田舎の生活を写し撮っただけのような静謐な作品だって映画館に観に行きます。僕もいわゆるミニシアターブームの中で映画にのめり込んだ人間のひとりとして、むしろアレクサンドル・ソクーロフ作品や、アッバス・キアロスタミ作品こそ映画館を必要とすると考えます。
アメコミヒーローものなら家で観ても楽しめますが、アレクセイ・ゲルマン監督作『フルスタリョフ、車を!』を自宅で観切るなんて到底不可能に思えるからです。途中で寝てしまって。……ま、映画館でも寝ましたけども。
以前にもこの連載で書いたことがあると思いますが、映画館の魅力のひとつに「他者がいる」ということがあると考えています。
ひとつは、ここに同じモノを愛する人たちがいる、という「淡い紐帯」を感じられるところにあります。特に旧作のリバイバル上映の時などは、その作品をすでに深く愛している人たちの割合が高く、より強くそれが感じられ、独特の心地良さがあります。
もうひとつに、他者がいることで緊張感と、奔放には振る舞えないという束縛感、強制感のようなものが生まれてきます。
これはマイナスのように聞こえるかも知れませんが、自宅で寝転がりながらビールだのコーラだのをガブガブ飲んでゲップし放題、いつでもスマホ見放題、というような状況だと、作品に対する集中力は著しく下がります。
もちろん他者の存在は時に、ガサガサうるさくするマナー知らずがいたり、悪気はないんだけど隣の人泣きすぎて逆にこっちは冷める問題を生んだりもしますが、こういうのもひっくりめて「世間」という感じがしませんか。「世間」つまりパブリックな場所である、ということです。