北大路欣也演じる徳川家康の画期的な位置づけ 『青天を衝け』が描く本質を見失うことの恐さ

『青天を衝け』が描く本質を見失うことの恐さ

 「おかしれえ」男が死んでしまった。『青天を衝け』(NHK総合)における平岡円四郎(堤真一)のことである。ただ心から惚れ込んだ「俺の殿様」一橋家当主・徳川慶喜(草なぎ剛)が作る新しい世を、最愛の妻やす(木村佳乃)と共に見ることを心待ちにしていた男は、本来なら慶喜に向けられた怒りや不満の矢面となり、斬られてしまう。

 その後、やすや栄一(吉沢亮)ら彼の訃報を聞いた人々と同じように「嘘だろ、冗談じゃない」と言い倒れ、生への執着を最期まで捨てなかった彼の死は、一際凄絶なものがあった。第17回で、本来なら「自分が死んだ後を見越して妻に宛てた手紙」が見つかりそうなシチュエーションにおいて、一切自分の死を予感していない、未来への希望に満ちた「妻への手紙」が見つかることもまた、この「予期せぬ死」の残酷さを際立たせた。

 大河ドラマ『青天を衝け』を観ていると胸のあたりが「ぐるぐる」してくる。一途に、真っ当に、正直に生きているか。一生を懸けて身を投じたい何かに出会えているか。登場人物たちが問いかけてくる。NHKの連続テレビ小説『風のハルカ』や『あさが来た』を手掛けた大森美香のオリジナル脚本で描かれる「近代日本経済の父」渋沢栄一の物語が、あまりにも等身大だからだろう。今まで自分で炊いたことのなかった米を何度も失敗を繰り返しながら炊き、ようやく成功させ喜ぶ栄一と喜作(高良健吾)や、円四郎が小姓として慶喜のご飯をよそうも、そのあまりの豪快さに慶喜自ら手本を見せるといった光景は、150年以上前に生きていた人々をより身近な存在にする。

 地震、疫病など彼らが見舞わられる様々な災厄は、コロナ禍を経験しなければ気にも留めなかっただろう「アマビエ」の絵を通して現代と重なり、道理がまかり通らない世の現状に「悲憤慷慨」し何かをやってやろうとする若者たちの台頭は、共感と驚嘆を以て受け入れられる。第12回までの間に描かれた、故郷・血洗島を出て「大義のために生きたい」栄一と、共に穏やかに過ごしていたい家族との葛藤や、惇忠(田辺誠一)、平九郎(岡田健史)ら故郷を出たくても出られない人々の葛藤も、自分たちの物語として置き換えて考えずにはいられない。

 そして、これまでも多くの大河ドラマが描いてきていた「幕末」を、元は一百姓であった栄一、後に「最後の将軍」となる慶喜、そして、まさかの江戸幕府を開いた徳川家康(北大路欣也)という、今までにない3つの視点から描いていることも画期的である。百姓の視点、政の中心にいる者の視点の両側から見つめることで、知っていると思っていた「幕末」が一風違った形に見えてくる。

 そしてそれらをさらに超越した神の視点が、登場人物たちが置かれた状況を歴史的背景含めて分かりやすく解説してくれる「家康によるレクチャータイム」である。前の週休んだことを詫びるといった茶目っ気を時折見せながらラフに登場するのも楽しい。第14回において、あらゆる巷の伝聞を聞きかじり構築した持論をぶつけた栄一に対し、円四郎が今の状況をサクッと説明することで「目から鱗が落ちた」と栄一が言う場面があったが、このドラマ、特に「家康レクチャー」の分かりやすさはまさにそれだ。

 あまり時代劇に馴染みのない人でも気軽に楽しめる構造になっていると同時に、「知ること・学ぶこと・視野を広げること」の重要性を栄一と共に学ぶことができる。なぜなら、幕末の動乱の数々を、栄一の生まれ育った故郷、武蔵国血洗島村の近郊に位置する藩であり、慶喜の出身地でもある水戸藩を中心に捉えることで、このドラマが描いているのは、実体とかけ離れた「幻の輝き」に踊らされ、本質を見失うことの恐ろしさなのである。

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