『青天を衝け』渋沢栄一ってどんな人? その生涯と功績、「合本主義」という考え方を解説
大河ドラマ『青天を衝け』がスタートした。関東地区の平均視聴率20.0%(ビデオリサーチ調べ)と好スタートを切った形だが、吉沢亮演じる主人公・渋沢栄一の生涯とその功績について、詳しく知っている人はそれほど多くはないかもしれない。
たとえば、公式サイトをはじめとして多くの記事などで「日本資本主義の父」と説明されている。もちろん、けっして間違いではないのだが、栄一自身は「資本主義」という言葉を使うことをあまり好んでいなかったという。
ここでは簡単ではあるが、新一万円札の肖像にも選ばれた渋沢栄一の生涯と功績、そして彼の「合本主義」という考え方についておさらいしてみたい。大河ドラマを楽しむための一助になれば幸いである。
渋沢栄一は徳川家の家臣だった
『青天を衝け』のオープニングは徳川家康(北大路欣也)が「こんばんは、徳川家康です」と登場する意表を突いたものだった。ここで家康は視聴者に「今につながる日本を開いたこの人物こそ、我が徳川の家臣であったと、ご存知だったかな?」と語りかける。
江戸時代の終盤にあたる天保11年(1840年)に生まれた栄一は、青年になると江戸に出て尊皇攘夷の志士となる。この頃は武器を奪って外国人居留地を焼き討ちにしようと企むような血気盛んな人物だった。
京都に出た栄一が、従兄の喜作(高良健吾)とともに京都に出て、そこで一橋慶喜(草なぎ剛)と出会って仕えることになる。栄一と慶喜の出会いを仲立ちしたのが、一橋家の家臣だった平岡円四郎(堤真一)だった。その後、慶喜が徳川家十五代将軍となったことで栄一も幕府に仕える家臣となる。倒幕を目指していたはずが、幕臣になってしまったというわけだ。
栄一にとって慶喜との出会いはとても大きなものだった。幕末の慶応3年(1867年)、パリ万国博覧会に出席するため、フランスをはじめとするヨーロッパ各国を訪問することができたのも慶喜の後押しがあったから。何よりも栄一は、江戸から明治へと次の世代にバトンを渡した慶喜の姿から大きな影響を受けていた。そのあたりはドラマで詳しく描かれるのではないだろうか。