『おちょやん』が伝えた“今ある人生”の尊さ ブレることなく貫かれた“普通”の理念
「たとえ1日でも、やるからには手ぇ抜けへんで」
「望むところだす」
そこには互いに切磋琢磨し続ける2人の喜劇人の姿があった。そして迎えた舞台本番。
「今ある人生、それがすべてですなあ。あんたと別れへんかったら、大切な人たちと出会うこともでけへんかった。あんさんも私も、愛する我が子と出会うこともでけへんかった」
「なあ、てる。おおきに」
「おおきに」
この台詞を言う刹那、2人は「お家はん」と「直どん」ではなく、千代と一平の顔になっていた。『おちょやん』ではこれまで何度も「作り事の芝居の中だからこそ、本心が言える」という劇中劇のシーンが繰り返された。「嘘の中の、少しの真実」が、観る者の胸を打つ。だから芝居をする。そうやって千代は生きてきた。
この世界がそうであるように、『おちょやん』には絶えず相反する2つの要素が存在する。ハレとケ、板の上と下、悲劇と喜劇、泣き笑い、理屈と感情、光と闇、絶望と希望ーーそれらが入れ子になり、行き交い、時に「回り舞台」の上でくるりと反転する。それこそが人生だ。このドラマは、誰も、何事も一義的には描かない。光の当て方ひとつで人生は違って見える。千代と栗子の関係、千代と一平との関係も「怨(えん)」から「縁(えん)」へと反転した。「生きるっちゅうのは、ほんまにしんどうて、おもろい」。
「演者と観客」という二者もまた、回り舞台の上にいる。千代の晴れ舞台を見つめる春子、岡福の面々、『お父さんはお人好し』の出演者たち。そして幻となって現れたテルヲ、サエ(水戸なつめ)、ヨシヲ。血縁の垣根を超え、生死の垣根をも超え、千代が生きてきた先に得た、大きな「家族」。終戦から7年。彼らのみならず、この劇場で芝居を見ている一人一人が、いまだに傷を抱えて生きている。傷の大小の違いこそあれ、テレビの前で『おちょやん』を観ている私たちも同じだ。そして一人ひとりが、自分の人生の主人公だ。
「今まで辛いことばっかりやったかもわかれへんけど、だんない。きっとこれからはええこともぎょうさんある。せやさかい、みんな一緒に楽しい冒険つづけよう」
初主演作『正チャンの冒険』で千代が放った直球のメッセージは、「言うは易し」かもしれない。でも、フィクションだからこそ、観る人に希望を与えることができる。この至極シンプルだけれど、大きな使命。『おちょやん』は、千代が歩む人生、そして役者道を通じて、エンターテインメントの役割とはなんなのか、その原点に向き合ったドラマではないだろうか。
完璧な人間などいない。誰もが不完全で、愚かで、傷つけたり傷ついたりを繰り返して生きている。大事なのは受けた傷、与えた傷、おかした過ち、それらとどう向き合うかだ。人間は何度でもやり直せる。
第1週で千代が奉公に出るために小学校を辞める時、担任の玉井先生(木内義一)が千代にかけてくれた「普通の子なんていません。いろんな子がいて、みんなそれぞれ頑張ってるんです。強いて言えば、それが普通です」という言葉にはじまり、ブレることなくこのドラマに貫かれた理念。最終回のラストシーンは、穏やかな日差しの中、千代と春子が手をつなぎ、桜舞い散る朝の道を歩いていくという「普通の1日のはじまり」だった。千代が長く苦しい道のりの末に手に入れた、尊い「普通」に胸の奥が熱くなる。
生きていれば、どうにもならない過去にしがみついて、ウジウジしてしまうこともある。自分の運命や、誰かを恨んでしまうこともある。そのたびに「竹井千代」というヒロインを思い出せばいい。そして「今ある人生」を抱きしめることで、生きていけそうだ。
■佐野華英
ライター/編集者/タンブリング・ダイス代表。エンタメ全般。『ぼくらが愛した「カーネーション」』(高文研)、『連続テレビ小説読本』(洋泉社)など、朝ドラ関連の本も多く手がける。
■放送情報
NHK連続テレビ小説『おちょやん』総集編
総合:6月19日(土)前編15:05〜16:35 後編:16:35〜18:00
BS4K:7月3日(土)前編14:00〜15:30 後編:15:30〜16:55
出演:杉咲花、成田凌、篠原涼子、トータス松本、井川遥、中村鴈治郎、名倉潤、板尾創路、 星田英利、いしのようこ、宮田圭子、西川忠志、東野絢香、若葉竜也、西村和彦、映美くらら、渋谷天外、若村麻由美ほか
語り:桂吉弥
脚本:八津弘幸
制作統括:櫻井壮一、熊野律時
音楽:サキタハヂメ
演出:椰川善郎、盆子原誠ほか
写真提供=NHK
公式サイト:https://www.nhk.or.jp/ochoyan/