『まどマギ TV Edition』の“変更点”を総括 差異とループの再構築は“ワルプルギスの夜”へ

『まどマギ TV Edition』の“変更点”を総括

 10月より日5枠にて放送された『「魔法少女まどか☆マギカ 始まりの物語/永遠の物語」TV Edition』(以下『TV Edition』)は、アニメーション制作会社シャフトによる代表作『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)の「再放送」である。公式サイトの概要には次のような記述を確認することができる。

2011年に全12話のTVシリーズとして放送された『魔法少女まどか☆マギカ』。翌年2012年、その12話を2編の劇場版として再編集し「[前編]始まりの物語」「[後編]永遠の物語」として公開。この2作では、随所にわたってカットのアップデートと新規カットが追加され、さらに再アフレコが行われました。

今回は、そんな劇場版[前編][後編]を全11話のTVシリーズとして再編成し、『「魔法少女まどか☆マギカ 始まりの物語/永遠の物語」TV Edition』として放送します。本作が、まだシリーズを観ていない方が「まどか☆マギカ」の世界に触れるきっかけに、また、すでにご覧いただいている方にとっても、新作〈ワルプルギスの廻天〉公開に向けての振りかえりとしてお楽しみいただけたらと思います。(※)

 この説明が示しているのは、『TV Edition』が2011年のTVシリーズを起点とし、2012年の劇場総集編を経由したうえで、再びTVシリーズの形式へと再編成されるという、いわば「第三の作品」として存在しているという事実である。したがって、本作で使用されている映像素材は2011年のTVシリーズのものではなく、全面的なアップデートを受けた劇場総集編仕様のものであるという。全12話のTVアニメを劇場用に再編集し、それをさらに全11話のTVシリーズとして再編成し直すという手続きはいかにも奇妙に映るが、再放送に際してより新しいバージョンを使いたいという製作側の思惑自体は十分に理解可能なものだろう。

 しかしながら、この理解は『TV Edition』の第1話「僕と契約して魔法少女になってよ!」を視聴した瞬間に、いとも容易く覆されることになった。第1話のアバン──主人公・鹿目まどかが夢のなかで、暁美ほむらと「ワルプルギスの夜」の戦いを目撃するシークエンス──は、劇場総集編においては削除された、TVシリーズにのみ存在する導入部であったからだ。本来、劇場総集編を母体として再編成されているはずの本作が、その劇場総集編には存在しないTVシリーズの映像を、あえて呼び戻していたのである。

 こうした編集の操作は、冒頭の一場面に限られた話ではない。同様の事態は、第1話のラストシーンでも起きている。自室でまどかが魔法少女に憧れを抱きながらキャンパスノートに絵を描く姿──この場面もまた、劇場総集編では削除された映像である。第1話は物語の始まりと終わりの双方をTVシリーズの映像が占め、そのあいだを劇場総集編の映像が埋めるという、実に興味深い構成を帯びるに至った。

 この点を踏まえるならば、『TV Edition』が掲げる「劇場総集編の再編成」という言葉を字義通りに受け取ることはできない。本作で実際に繰り広げられているのは、既存の素材の整理といった穏やかな編集作業ではなく、異なるバージョンに属する映像を横断的に接続し、新たな文脈を生成するための大規模な「再構成」である。2011年放送のTVシリーズと、2012年公開の劇場総集編──この二つの異なるバージョンを再構成することで成立している、きわめて特異な作品として『TV Edition』は立ち上がっているのである。

“作り直し”レベルの改変が施された劇場総集編

 ここで注目したいのは、TVシリーズと劇場総集編とのあいだには、「カットのアップデート」という言葉では到底説明し切れない、設定レベルでの変更が折り込まれている点である。キャラクターデザインから美術や小道具の設定に至るまで、劇場総集編はTVシリーズの延長線上に簡単に位置づけられるものではない。それは「総集編」という言葉の響きを超えて、もはや別個の作品として成立しているとさえ言っても過言ではない。この点を最も端的に言い表しているのが、脚本を担当した虚淵玄による劇場総集編についての次のコメントである。

ほんのちょっと作画の乱れを直すだけ、ぐらいなつもりでいた私自身が、完成したフィルムを拝見して、お客さんと同様、いやそれ以上に度肝を抜かれました。もうほぼ完全にリニューアルじゃないっすか! こりゃTV版観ただけでスルーなんてとんでもない、むしろ完全版として再見必須の映像じゃないですか!(『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ KEY ANIMATION NOTE VOLUME extra 始まりの物語/永遠の物語 RAKUGAKI-NOTE』)

 虚淵のこの驚愕には、当時多くの視聴者が抱いた感覚が凝縮されている。ここで明らかにされているのは、劇場総集編が通常の修正作業ではなく、TVシリーズの「リニューアル」と呼ぶに相応しい水準にまで刷新されていたという事実である。実際、監督の宮本幸裕も、「手を入れていないカットは1カットもない状態だった」と映画のパンフレットのインタビューで答えている通り、劇場総集編の段階ですでに作品が別物へと生まれ変わっていたことが裏付けられる。

 ところで、すでに述べてきたように『TV Edition』は劇場総集編を主要な素材としながらも、部分的にTVシリーズにしか存在しないシーンを差し戻すことで、両者を同一の映像に併存させている。だが、この操作をするとき、避けがたいある問題が浮上するはずだ。劇場総集編において削除されたシーンを本作において使おうとする際、その後に施された数々の修正や設定変更を経由していないため、単純な再利用ができない箇所が必然的に出てくるのである。

 たとえば、まどかたちが通う見滝原中学校の設定を思い出してみたい。元のTVシリーズにおいても、すでに全面ガラス張りを多用した独特な校舎として造形されていたこの近未来的な建築は、劇場総集編に際して大幅な意匠変更を受けている。ゴシック装飾を思わせるモチーフが追加された結果、TVシリーズとはある程度の連続性を保ちながらも、「改築」と呼んでも差し支えないほどには変わっているのである。

 だからこそ、学校やクラスルームを描いたシーンのすべてが劇場総集編の制作時に大胆なリテイクを受けることになった。背景からキャラクターの作画、撮影処理も別物になっているため、修正というよりはどちらかと言えば作り直しと称したほうが正確だろう。劇場総集編はTVシリーズとは根本的に異なる相貌を帯びているのである。

 こうした前提がある以上、劇場総集編で削除されたTVシリーズ固有のシーンを、今回の『TV Edition』へそのまま流用することは、構造的に不可能なのである。劇場総集編の制作段階で設定そのものが大幅に更新されたため、旧バージョンの映像をそのまま劇場総集編の映像に貼り込んだ瞬間に、画面内の整合性は崩れる。ゆえに、当該シーンは原則として新規に描き直すほかない。本作のエンディングに、「TV Edition 作画協力:勝冶果歩」、「TV Edition 色彩設計:日比野仁」、「TV Edition 仕上協力:川上優子」(第5話)といった新しいクレジットが追加されているのは、そのためだろう。

 ここで行われているのは、ブラッシュアップとしての作画修正ではない。TVシリーズと劇場総集編という二つの設計図が互いに干渉しつつ併存しているため、両者の境界線に位置する箇所は、どうしても再構築を余儀なくされる、いわば「必然的なリテイク」が生じるのである。今回の『TV Edition』には、こうした必然性に導かれた新規カットが多数含まれており、それが本作の見どころのひとつとなっている。

『TV Edition』における“恣意的なリテイク”

 ここまで扱ってきた「必然的なリテイク」は、構造上どうしても回避できない種類のものであった。逆に言えば、作品の設計段階にまで遡って考えるなら、その多くはあらかじめ予測可能な修正であったとも評することができる。TVシリーズと劇場総集編の差異を十分に把握していれば、どの箇所に齟齬が生じ、どこへ手を入れざるを得なくなるかは、おおよそ見通しが立つ。その意味で、これらは想定内のリテイクであったと位置づけられる。

 だが、問題はそこで終わらない。ここでさらに注意深く考えないといけないのは、こうした「必然的なリテイク」とは明らかに異なる力学によって生じている、もうひとつのリテイクの存在である。それは制作上の要請から導かれたものではなく、構造的な必然とも結びつかない。必然性を欠いたまま、あえて挿入されているリテイクが、確かに存在しているのである。

 その代表的な例として挙げられるのが、物語の中盤に登場する魔法少女・佐倉杏子が食べているお菓子の味が変化していたり、カップラーメンの銘柄が差し替えられていたりする点である。たとえば第5話において杏子が食べているポッキーは、TVシリーズではチョコレート味、劇場総集編では抹茶味、『TV Edition』ではイチゴ味になっている。こうした味の変更は、物語の進行や因果関係に対して直接的な影響を及ぼすものではまったくない。にもかかわらず、そうした些末な細部に、あえて別のバージョンが誕生している。この点に、「必然的なリテイク」とは明らかに異なる、いわば「恣意的なリテイク」と呼ぶべき性格が表れている。

 制作上の観点から見れば、こうしたリテイクに必然性を見出すことは難しい。表面的に見れば、これはファンサービス、あるいは制作スタッフの気まぐれとして理解することも可能だろう。しかし、『まどか』という作品がループ構造を内包していることを踏まえるならば、これらの差異をシンプルなノイズとして退けてしまうのは早計である。

 実際、劇場総集編そのものがTVシリーズとは異なる別のループの世界線として構想されていたことは、総監督・新房昭之のインタビューによって明確に裏付けられている。新房監督は劇場総集編について、次のように語っている。

自分の中でこの劇場版は「もう1〜2回ループした世界」というイメージなんです。だから何もかもが同じではなく、細かいところはちょっとだけ違う。あくまで自分のイメージなのですが、「あれ?」って気づいた人にそんな想像してもらえたらいいな、と思っています(『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語』劇場パンフレット)

 ここで語られている「細かいところはちょっとだけ違う」という感覚は、先に触れたリテイクが持つ意味にとって重要である。差異を伴う反復は、単なるリテイク作業の副産物ではない。それは、世界そのものがどこかでズレていることを知らせる兆しとして佇む。その意味で、お菓子の味が違うといった些細な違いは、物語的な意義を欠いた無意味な変更にとどまらない。視聴者が世界の揺らぎを感知するきっかけとなり、作品の構造を、形式の次元から前景化する役割を果たすのである。こうして、恣意的に見えるリテイクは、作品世界そのものを示す媒介へと化す。

 この観点に立つならば、『TV Edition』における「再編成」とは、異なるバージョン間に潜在していた差異を掘り起こし、それを意図的に増幅する試みとして理解できる。設定の改変に伴う整合的な修正としての「必然的なリテイク」と、世界の揺らぎを示す徴候としての「恣意的なリテイク」とが混在することによって、『TV Edition』は分岐し続ける複数の世界線そのものを提示してみせるのである。

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