パブロ・ララインが生み出した新しいヒロイン像 『エマ、愛の罠』で“身体”の表現の高みへ

『エマ、愛の罠』が生んだ新しいヒロイン像

 炎と女の映画といえば、たとえば『あの日、欲望の大地で』(2008年)が想起される。ファーストショットで映し出される燃え上がるトレーラーは、やがて主人公の女が、少女時代のある「復讐」のために引火させたものだと謎が明かされていく。しかし、女が炎を手なづけられなかったがために、それは一瞬で「悲劇」へと転化してしまう。その後、女はパートナーになる男と、腕をライターで炙り同じ火傷の傷跡をつけ合う。この映画において、炎は人生に悲劇をもたらしたものであると同時に、人との絆的な繋がりを担保する両義的なものとして描かれていた。本作にとってもまた、炎はエマの家族を破壊したものでもあるが、同時に開放の武器でもある両義的なものである。赤と青の揺らめく炎、赤と青が明滅する信号機、赤と青に変容するダンス空間といった連なるイメージが、エマというヒロイン像が両立させる、内に秘める情熱とはたから見える冷酷さへとそのまま接続する。誰とでも関係を持てばいいと突き放して他の女と寝るガストンを、次の瞬間には粗暴に引き戻す両極端な言動と行動の持ち主。エマはこの復讐譚のなかで、自己を成長させることも、世の道理を理解することも、惨事を受け入れることも拒みながら、期待される「良き女」のイメージをすり抜けていく。まったく新しいこのヒロインは、ただ野蛮に美しくなれ、と鼓舞してくるのだ。

 『エマ、愛の罠』は、度重なる燃焼行為によって、湿度を極限まで低くする。子を思う親の感情は、不道徳な行為の免罪符にはならない。「子を思う感情」をいわゆる「母性」と置換してみても、それはこの映画にとって、呪詛のようなものとしては機能しない。ジメジメとしたあらゆることは、その湿度の低さによって無効化されているようである。エマが自らの手によって焼却し、灰にしてしまいたかったのは、法と制度の理不尽さであり、伝統的な家族の単位と秩序であり、自らを束縛する一切合切だったのかもしれない。壮大な計画を粛々と実行して成し遂げたとしても、まだそれらがとめどなく渦巻いていることを、ラストショットはほのかに示唆しているのだろうか。もしそうだとするのなら、彼女の飽くなき反骨精神は、きっとこの世のすべてを焼き尽くすことはない。

■児玉美月
映画執筆家。大学院でトランスジェンダー映画の修士論文を執筆。「リアルサウンド」「映画芸術」「キネマ旬報」など、ウェブや雑誌で映画批評活動を行う。Twitter

■公開情報
『エマ、愛の罠』
10月2日(金) より、シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町、kino cinema立川高島屋S.C.館ほか全国公開
監督:パブロ・ラライン
出演:マリアーナ・ディ・ジローラモ、ガエル・ガルシア・ベルナル、パオラ・ジャンニーニ、サンティアゴ・カブレラ、クリスティアン・スアレス
配給:シンカ
提供:シンカ/ハピネット
後援:チリ大使館/インスティトゥト・セルバンテス東京
2019年/チリ/スペイン語/107分/カラー/シネスコ/5.1ch/原題:Ema/ R15+
(c)Fabula, Santiago de Chile, 2019 
公式サイト:http://synca.jp/ema

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