パブロ・ララインが生み出した新しいヒロイン像 『エマ、愛の罠』で“身体”の表現の高みへ

『エマ、愛の罠』が生んだ新しいヒロイン像

 吊るされた信号機が炎上している強烈なファーストショット──。カメラが引いていくと、そこに一人の女が映し出される。火災放射器を担いだこの女エマ(マリアーナ・ディ・ジローラモ)が、本作『エマ、愛の罠』の“ヒロイン”である。エマは、映画における既存のヒロイン像の枠組みにおさまらない新たな魅力を携えて、物語を牽引していく。チリの海港都市であるバルパライソに住むエマとパートナーのガストン(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、養子として迎えた7歳のポロを“ある事件”によって手放したことをきっかけに、関係が危機を迎えている。しかしそんななかであろうと、エマは関係を修復するために、ガストンと健気に会話を重ねるつもりも、建設的な解決方法を模索するつもりも、はなからなさそうに見える。燃焼した惑星のような背景が広がる妖しいダンス空間が差し込まれながら進みはじめる物語は、そんなエマにたやすく感情移入させることも、彼女の胸の内を開示することも巧妙に避けながら、映画が持つ独特なリズムへと観客をいざなっていく。

 本作『エマ、愛の罠』を監督したパブロ・ララインは、これまでに『グロリアの青春』(2013年)や『ナチュラルウーマン』(2017年)などの製作を務めてきた。両作はいずれも、女の孤独や強さに寄り添い、女の人生を祝福する映画である。同じく一人の女の生き様を描いた監督作品である『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』(2016年)は、ジョン・F・ケネディ大統領の夫人ジャクリーンを中心に据える。『エマ、愛の罠』も『ジャッキー/ファーストレディ』も、それぞれ描かれる女の名を冠した映画にあって、ララインは作品ごとの手付きで固有な女のイメージを構築していく。『エマ、愛の罠』は、エマの大胆な身体をスクリーンにほとばしらせる。対して『ジャッキー/ファーストレディ』では、ジャクリーンを演じるナタリー・ポートマンの顔に執拗に接近し続けるカメラによって、その微細な表情や仕草をスクリーンに差し出す。それは伝記映画でありながらも、歴史的検証をしりぞけ、感情的心証に重きを置く試みだった。同作において、身体に関わる表現の可能性を見いだせるとすれば、一つにはジャクリーンのファッションにあるのだろうが、映画が終わったあとに記憶に残るのは、ひとえにポートマンの“顔”そのものかもしれない。ここでララインは、顔の表現の極地に到達したかのように思われる。そして新作『エマ、愛の罠』で、今度は“身体”の表現の高みへと向かうこととなる。

 エマに立ちはだかる養子縁組制度という壁のかたわらで、彼女は踊る。法や制度は従属する人間の身体をときに硬直させるが、それに対抗する身体は躍動する、とでも言わんばかりに踊る。世界には、未だ公的な場で女が踊ることを禁じている地域が偏在している。本質的に性的要素をはらむ女による踊りのモチーフは、しばしば映画においてフェミニズム的な意味を持ちえてきた。直近で言うなれば、ルーマニアの女性監督による実験的映画『タッチ・ミー・ノット ~ローラと秘密のカウンセリング~』(2018年)の終奏で見られた、己の開放のための儀式的な女の踊りがその一例に挙げられるが、エマの踊りはそれとはまた質を異にする。エマの踊る行為は、彼女が受けた傷や抱える苦悩をなぞるような内省的な身体表現ではなく、境界線を飛び越えたアンチテーゼを唱える対外的な身体表現にほかならない。

 男のガストンは確かにダンスの指導者であり管理者であったかもしれないが、性的不能に陥っている時点で、エマの生きる世界では男による絶対的な支配が失敗に終わっている。ポロを巡る諍いのなかで、ガストンが「『悪い女』や『母親』の裏切りは、男のそれよりもこたえる」と、女に対する呪文のように叱責すれど、エマは屈しない。『エマ、愛の罠』においては、踊る行為も性行為も、同列の身体表現として布置されているように思われる。エマが性的快楽を得るのは、決して男からだけではない。男の手によってのみ女の快楽は成立するのだという定式は、エマの性別という概念を逸脱した性愛関係が、いとも簡単に切り崩してしまう。家父長制が自明とする考えでは、女の身体は男のものでしかなかったが、エマの身体はエマだけがコントール可能なものとしてある。エマが炎だけでなく、水までもを盛大に放つ、その自家撞着のような行為もまた、彼女が自らの身体だけに留まらず、世界をも意のままにできてしまうことを告げている。

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