<特別編・後編>宮台真司の『攻殻機動隊 SAC_2045』評:人間より優れた倫理を持つ存在と戦う必要があるのか?

<特別編・後編>宮台真司の『攻殻機動隊 SAC_2045』評:人間より優れた倫理を持つ存在と戦う必要があるのか?

 リアルサウンド映画部にて連載中の社会学者・宮台真司による映画批評。今回は特別編として、6月1日放送のミュージシャン・ダースレイダーとのライブ配信企画「100分de宮台」の第4回目を対談形式にて掲載する。後編では、前編(参考:<特別編・前編>宮台真司の『ミッドナイト・ゴスペル』評:サラダボウルの中にいた「見たいものしか見ない」主人公が「倫理」に気づく)で語ってもらったNetflixオリジナルアニメ『ミッドナイト・ゴスペル』とポストヒューマン的世界観を共有するNetflix『攻殻機動隊SAC_2045』を論じる。本作が問いかける、「ポストヒューマンのルーツ」だという倫理の行方、感情の劣化の描写、そして作品内で示唆される、民主主義国家で暮らす人々の未来像についてまで語ってもらった。

【『ミッドナイト・ゴスペル』を踏まえた『攻殻機動隊SAC_2045』】

ダースレイダー(以下、ダース):『攻殻機動隊』は押井守が1995年に作った、士郎正宗の漫画が原作のアニメシリーズ。「公安9課」という凄腕の人たちが集まるスペシャリスト集団が、政府の特務機関としていろいろなことを解決している。最初は「笑い男」という犯人像が出てきて、その次には「個別の11人」が出てきて、そうした事件を通じて社会批評をやっているSF作品で。

 主人公は草薙素子という女性の名前がついた全身義体の作り物で、GHOSTと呼ばれていてーー攻殻機動隊というのは原題がGHOST IN THE SHELLーー「全部が作り物でも心が宿ることがあるのか」あるいは「生身の人間の中にGHOSTはあるのか」とか、そういった問題設定をいろんな形でしているアニメの最新シリーズが、Netflixで公開された。けれど、まだ12話しか公開されていなくて、話の途中でいまのところ止まっていて、これがどう続いていくのか。

 前作から数年経って、公安9課のメンバーがまたもう1回集まって、いろいろなことをやっていく中で、どうやら今回相手にしなきゃいけないのは「ポストヒューマン」と呼ばれる人たち。彼らの正体が具体的になんなのかってのが分からない。でも突然発症して、すごくテクノロジーを使いこなしたり、あるいは肉体的な意味で超人間的な存在になっちゃっている人たちが、世界中にボンボン現れてきている。アメリカのCIAがなんとかしようとしていたら、日本にもポストヒューマンがいるぞってことで、公安9課がその対応を求められると。この「ポストヒューマン」がなんなのか、そもそもそれでなにを描こうとしているのかがポイントになると思うんですけど。

 一応前段として、ハラリ(イスラエルの歴史学者)とかが想定している「スーパーヒューマン」みたいな概念。これは2点あって、テクノロジーが進化した結果の、攻殻機動隊でいう義体ーーテクノロジー的な超肉体ーーを身につけることができる。あるいはバイオテクノロジー的、デザインベイビー的に遺伝子レベルでスーパーヒューマンになることができるんじゃないかと。

 テクノロジー、あるいはバイオテクノロジーによって、いまの人類よりもパワーアップした存在が今後出てくると。それを「スーパーヒューマン」とハラリは呼んでいて、スーパーヒューマンが出てきたときに、僕らは人間にとってのチンパンジー的な地位になってしまって、「それで彼らとどう対峙するのか」っていう命題設定、あるいは倫理設定ってどうするのかをテーマにして、いろいろなシナリオを書いていると思うんですけども。

宮台真司(以下、宮台):ただ『攻殻機動隊SAC_2045』は、ハラリの想定とは違っているところがあるよね。ハラリやダナ・ハラウェイ(アメリカの科学史家)がいうスーパーヒューマン化やサイボーグ化は個体レベルでの「進化」だけど、『2045』のポストヒューマンたちは全て、体は全て生身で義体化されていないのにーーそこがポイントーー、量子コンピュータのサーバと集合的に繋がっていることが暗示されている。そこに個体としての意識が一切存在しないんだね。

 思い出すのは、アーサー・C・クラーク(イギリスのSF作家)の『幼年期の終り』(1952年)。そこでは、ポストヒューマンに当たるニュータイプが、個体としての意識を持たず、我々ヒューマンとは違った倫理を生きる存在であることが、はっきり描かれていた。彼らの集合的主体としての倫理を前に、我々の分断的主体としての倫理が、全く役に立たないというか、意味のない低レベルのものとして一蹴されることが、描かれている。まだシリーズ1だけど、そのモチーフが『2045』には入っているだろうと予想できるよ。

ダース: 『幼年期の終り』ですが、幼年期っていうのがなんの「幼年期」なのかっていうのが、まあ読んだら分かるんですけども。その時すごく、「わぁ~」って思いましたね。「そういう意味か!」みたいな。そういう意味で考えた時、僕らも、子どもたちの幼年期が終わった時に、ほぼ別の生き物になっているわけじゃないですか。2~3歳くらいの子どもと5歳くらいって、全然違う生き物なんですよね。それが今後起こると考えた時に、「万物の霊長類だ」と思っていた僕らが「幼年期がそろそろ終わるんだよ」と言われた時に、どう対応すればいいのかという。

宮台:原題は『Childhood’s End』。タイトルに二重性があるんだね。1950年代初期はブラッドベリ(アメリカのSF作家)が流行っていた。それを意識していたと思う。ブラッドベリにとってchildhood’s endは「こころの劣化」だ。彼の有名なモチーフは「子どもには、大人が見えないものが見え、大人が聞こえないものが聞こえる」。日本では大島弓子や萩尾望都などの少女漫画や、「ひこうき雲」や「やさしさに包まれたなら」など荒井由実の初期作品に受け継がれた重要な叙情のモチーフだ。実際「幼年期の終わり=劣化」は多くの人が思っていることでしょ? 大人になることで、かつて感じられたものが感じられなくなるという。

 そうした原住民的な理解を、クラークは前提としている。「閉ざされた大人たち」が作る科学文明がある。そこに上帝Overloadと呼ばれる異星人がやってきて、300年かかるはずのヒューマンの文明進化を50年で限界まで引き上げる。飽くまで「閉ざされた大人たち」の「閉ざされた科学文明」だ。ところが「閉ざされた大人たち」の「閉ざされた科学文明」が飽和すると、ニュータイプ=ポストヒューマンの子供たちが続々誕生し始める。集合感情によって集合知を使う「開かれた子供たち」だ。彼らは「閉ざされた大人たち」へと成長することはない。むしろオールドタイプ=ヒューマンの「閉ざされた科学文明」を駆逐し、最後は地上の文明と「閉ざされた大人たち」の一切を死滅させてしまう。

 大人へと成長することで個体の殼の中に閉じ込められていくヒューマン。逆に、成長することで集合感情と集合知へと開かれているポストヒューマン。ポストヒューマンは「個体の外」へと開かれるだけじゃなく、「社会の外=世界」へと開かれている。結局のところ「閉ざされた大人たち」が作る「閉ざされた科学文明」は、ポストヒューマンを生み出すために法則的に不可欠なプロセスだったというわけだ。ポストヒューマンが誕生すると、彼らはほどなくヒューマンを絶滅させる。つまりヒューマンは「捨て石」だ。ここでchildhoodと呼ばれているのは、実は「閉ざされた大人たち」の「閉ざされた科学文明」なんだね。

 当時は冷戦体制下でアカ狩りの真っ最中だった。この作品は「今の我々には共産主義社会は営めないが、仮に我々がネクストステージに進化すれば……」という反実仮想だったと考えられる。この反実仮想は二重の意味を持つ。「今の我々の倫理では、共産主義は全体主義であって許容できない」という否定面と、「我々が全く別の倫理を持つ集合的生物に進化すれば、共産主義を合理的に生きられる」という肯定面だ。1995年にテレビシリーズとして始まった庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』における「人類補完計画」は、映画版の続編で最終的に否定面だけを引き継いだ点で、“物語としては”劣化版だけど、使徒のようなポストヒューマンへの誘惑を含む点で、“表象としては”ちゃんと肯定面を引き継いでいた。

 『攻殻機動隊SAC_2045』は、この否定面と肯定面を、今日的状況を踏まえてどう批評的に提示するかにチャレンジしていると思う。ポストヒューマンは「我々にとって」反倫理的なanti-ethicalーー僕の言葉では脱社会的なde-socializedーー存在だ。つまり『幼年期の終わり』や『新世紀エヴァンゲリオン』と同じく、否定面を描いている。ただし10話までだ。ところが11話と12話でトーンが変わる。11話が「14歳革命」、12話が「全てがNになる。」だ。実は最初のポストヒューマンの一人が誰よりもヒューマンな存在だったことを11話が描くんだね。そこにシーズン2で描かれるだろう肯定面の伏線が隠れているよ。

ダース: ずっと倫理に拘泥して、なんとか取り返そうとするメンタルが、全ての行動のモチベーションになっているようなキャラが出てくるってことですね。

【「ポストヒューマン」は人間的な倫理観を持つ存在】

宮台:そう。「ポストヒューマンは、ヒューマンな倫理を持たない、狂った量子コンピュータの手先みたいなものだ」と思わせられた挙句に、突然「実は全然違うんだよ、むしろ本当の倫理は……」という「反転」が暗示される。そこから予想できるのは、第一に、『エヴァンゲリオン』シリーズよりも遙かに強く「childhood’s end=現文明の終わり」の肯定面を打ち出すだろうこと。第二に、そこで描かれる肯定面は、僕らの「コロナ禍によって炙り出された御粗末な現実」を踏まえて、『幼年期の終わり』よりも遙かに具体的に、否定面と肯定面を描き出すだろうこと。とすれば、シーズン2に期待しないわけにはいかないよ。

 実際、ヒューマンな倫理には不完全さがある。第一に、進化生物学的に言えば、倫理とは「仲間を守るためには、絶対に許せないぞ」という感情の共同主観性で、そうした感情の共同主観性があるか否かで集団的生存確率が左右され、淘汰によって倫理のゲノム的な基盤も構成されたと考えられる。

 第二に、僕が各所で汎システム化pan-systemization論として展開してきたように、このゲノム的基盤には矛盾する方向が含まれる。典型的には、「技術化=負担免除化」に向かおうとする「安心・便利・快適」志向ーー正確には「不安・不便・不快」回避の志向ーーと、「他人とのつながり」に向かおうとする「分断・孤独」回避の志向だ。結果、技術化の必然としての汎システム化で、僕らは技術体系に駆り立てられる孤独で不幸な存在になり、感情的劣化を被る。かくしてヒューマンな倫理の不完全さが露呈するわけだ。

 僕らを滅びに向けて驀進させるヒューマンな倫理の不完全さは分かったとして、ポストヒューマンの倫理とは、現実的にどんなものであり得て、どんなものであるべきか。12話の「そしてNになった。」の英語タイトルは「NOSTALGIA」だ。森が出てくる。忘れられた昭和的時空も出てくる。そういう時空があったことすら忘れられた時代の、人が住まない打ち捨てられた山里が出てくる。そこで、ある事件が起こり、後にポストヒューマンになる少年が恐ろしいキズを受ける。キズを受けるエピソードを描くのが12話だ。1つ前の11話では、時間が前後して、そのあと彼が中学生になった時の「クソ社会」が学校を舞台に……。

ダース: 「クソ社会」が本当に分かりやすく描かれていますよね。

宮台:そう。学校での本当に「クソな教員たち」と「クソな生徒たち」が「これでもか!」というほど描かれる。僕は「そうか」と思った。全ての回の脚本に神山健治が参加している。神山さんとは喋ったこともあるし、どういう人か分かっているのもあるけど、「あ~、神山流が出てきたな~」と思った。悪い意味じゃなく、「やはり、そう来なくっちゃ」っていうね。つまり、ポストヒューマンのほうが倫理的に格上なんだよ。観た人の多くは分からないだろうけど、そう思って観ると、実は、伏線がいろいろ張られているのが分かる。

ダース: ありますね。このアニメにボクサーが出てくるんですけど、ボクサーの行動様式とかも、今の段階では「どちらともいえる」って感じなんですけど、12話まで観てから1個1個振り返ってみると、「もしかしたらそれはこういうことか?」みたいな余韻っていうのが実は描かれていて。しかもポストヒューマンっていうのが、アーサー・C・クラーク的な意味での『幼年期の終り』とつながるものであるなら、全員、同じエシックで行動しているという設定もありうると。

宮台:そう。そこが見えるよね。

ダース: これがちょっと、先がどう出るか分からないんですけど。

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる