宮台真司の『呪怨:呪いの家』評:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

宮台真司の『呪怨:呪いの家』評:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

【90年代に「場所の呪い」が出現】 

 7月からNetflixのドラマ『呪怨:呪いの家』(以下、『呪いの家』)が配信中だ。三宅唱監督のこの作品は冒頭にナレーションが入る。「『呪怨』は実際に起きた出来事を参考に作られた。それらの出来事はある一軒の家に端を発していることが分かった。だが、実際に起きた出来事は映画よりも遙かに恐ろしいものだった」。ここでの『呪怨』は2003年のオリジナル映画(またはビデオ版『呪怨』2000年)を指す。

 つまりドラマがオリジナルの映画『呪怨』と当時の社会的現実との関係を考察するものだと宣言されている。実際『呪いの家』には1989年から1997年にかけて社会を恐怖に陥れた事件の殆ど全てが言及される。他方、僕は各所で日本社会の顕在的劣化が1996年から始まり、それが80年代の新住民的ジェントリフィケーション(環境浄化)に由来すると述べてきた。

 だから『呪いの家』に繋がる1963年からのJホラーの歴史を一覧すれば、ホラー映画の批評機能を通じて日本社会の劣化の歴史を辿れる。ここでは後述の理由から1963年から1996年までを「JホラーVer.1」、1997年から今までを「Ver.2」として論じるが、それぞれが同時代の日本社会の劣化状況のフェイズに対応する。以上を枕として本題に入ろう。

 Ver.1と2を画するのが黒沢清監督『CURE』(1997年)。「社会=言葉・法・損得」への「閉ざされ」の中で腐りゆく夫婦関係と、彼らを「社会の外」に誘なうstranger=ヤバイ奴という組合せが示される。誘なわれて「社会の外」に連れ出されてみたら究極の享楽=解放に到り、そこから振り返るとマトモな家族が「閉ざされた廃墟」として現れる。

 『CURE』の画期性は「新しい腐敗」を描く点にある。「その土地で忘れられた者が、相手が旅人(能)(日本の伝統ホラー)であれ新住民(少女漫画)(JホラーVer.1)であれ、思いを伝えにやってくる」という形式とは違う。土地のゆかりなき者として旅人ならぬ新住民を持ち出す「Ver.1」は「経済成長に伴う地域空洞化」に関係している(後で詳述)。

 『CURE』の場合、呪う主体は、土地の人や動物ではなく、土地の時空そのものだ。外からやって来た謎の医大生が言う。本当のアンタは家族も社会もメチャメチャになればいいと思ってる、だったらメチャメチャにしちゃえよ、それでアンタは解放されると。そこには「忘れられた者」はいない。まさにJホラーの新世紀を告げるに相応しい作品だ。

 同時期に鈴木光司原作『リング』と続編『らせん』が同時公開されるが(1998年)、これらはテック(テレビやビデオ)が道具立てなのにも拘らず、話は古い。少し後の清水崇監督『呪怨』(2003年)ーー『呪いの家』(2020年)の言及先ーーは黒沢清コードの影響が明らかでありつつも、「その土地で忘れられた人」が出て来る点では新旧が混ざっている。

 配信中の『呪いの家』は文字通り「家の呪い」を描くが、忘れられた者の地縛霊の如きものではないことが明示される。地縛霊は鎮められる。元々は人畜無害な人や動物だからだ。でも「場所の呪い」は鎮められない。コミュニケーション可能な人や動物ではない=「社会の外」だからだ。それがシリーズ1の最終回で示される。これは重大なポイントだ。

 1988年から始まる物語は、1989年の連続少女誘拐殺害事件と足立区綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件、1995年の阪神淡路大震災とオウム事件、1997年の酒鬼薔薇聖斗事件、1999年の東電OL事件などを劇中のテレビ画面を通じて示す。オリジナル『呪怨』までの実話という設定だからだが、物語と実在事件とのシンクロが繰り返し示され、見事に成功している。

 僕は本やテレビ(『朝まで生テレビ』等)でこれら事件の全てにコメントしてきた。繰り返してきたのは「ヤッたのがたまたまアンタじゃなかっただけで、アンタがやっていても不思議はなかった」ということ。犯罪被害者は誰でも良かったという通り魔殺人とは違い、犯罪者が誰でも良かったという問題だ。社会が犯罪者をロシアン・ルーレットで選ぶのだ。

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