<特別編・後編>宮台真司の『攻殻機動隊 SAC_2045』評:人間より優れた倫理を持つ存在と戦う必要があるのか?

宮台真司の『攻殻機動隊 SAC_2045』評

【「ポストヒューマン」の誕生は沖縄の「ユタ」に通ずる】

宮台:更に伏線を拾うと、高熱が出て1週間寝込んだ後にポストヒューマンになる。沖縄のことを知っている人は分かるよね。これは「ユタ」が誕生するプロセスと同じだ。思春期の時ーー多くは中学生の頃ーー高熱が続いて1週間ほど寝込むと、病から明けた時に霊的な能力ーー社会の外と交信したり時空を超えて先祖と交信する力ーーを持つようになる。それを知る人は、「ポストヒューマンになることは、個体の外、社会の外、時間の外に開かれることなんだろうな」って直ちに思う。これはとても重要なヒントだよ。

ダース: 沖縄の「ユタ」の話が出ました。沖縄の人であっても当然、社会ーーそれぞれの村や集落ーーに縛られて生きているわけなんですけど、ユタという存在がいることによって、外側とのバランシングをとっているというか。集落の中で、みんなは今を生きて、社会の中で生きて、日々の暮らしをしているけども、そうじゃないものーー先祖もいて、そして未来の自分らの子孫もいてっていう人とつながれる人ーーが一人いることによって、バランシングをとっている。これは宮台さんがいろんな形で言っている、「外から力を招き入れる存在」みたいなものとして、「ユタ」が沖縄の場合は配置されていたということでいいんですか?

宮台:そう。補足を1つだけすると、「ユタ」は沖縄でも両義的な存在なんだね。「個体の外・社会の外」に出ることができる存在って、共同体にとっては必要だけど、家族たちは、自分の娘や息子がユタになりかかると「やばいやばい」ってみんな思うわけ。例えば、歌手のCocco。彼女は、中学生になったときに高熱で1週間寝込んで、お母さんは「これはユタになっちゃう!」って大変に困ったんだ。

 共同体にとっては、共同体と外をつなぐ通路として機能する存在が必要だけど、家族や仲間にとっては、自分の愛しい存在が「今ここ」を生きない存在になっちゃうのは困る。つまり、社会から見るとperipheral(周辺的)な方向に押し出されて「力を持つ」ことを、家族や仲間が嘆くという図式だ。それを知っていると、ポストヒューマンの設定は「ユタ」だということが分かる。

ダース: そうですね。ある種、神がかりになる人が出てくる物語って、その人であってその人でなくなる、個人としてのつながりが希薄になってしまうケースが描かれることが多いんですけども。

 『ナチュン』っていう漫画があって、それは沖縄が舞台の話なんですけど。「力を持つ一族」っていうのがいて、その力を持つがゆえに、共同体からは迫害されるんですね。それは、必要となったときには最も大事にすべき存在なんだけども、日常生活では最も忌むべき存在みたいな描かれ方をしている。で、彼女はもう分かっていて……その分かっているというのが不気味にも見えるんです。「そういうのもう全部おりこみ済みですよ」っていう態度を取られるから、また苛立つ。

 ポストヒューマンも、いわゆる人間側から彼らを見た時に、苛立つ存在だと思うんですよね。なんかその……分かんないから。分かんないけど、力があるのは分かるとか。そういった場合に当然の反応として起こるのが、『攻殻機動隊SAC_2045』におけるCIA的な動きっていうのはすごく、典型的な反応だとは思うんですけど。でも「ユタ」説でいくと、答えがほぼ見えちゃった気もするので(笑)。

宮台:ある程度、答えは見えた(笑)。でも、多くの人は11話・12話を観て「意味不明」だと思っただろうね。だから、このぐらいのヒントを与えるくらいはいいのかなと。このぐらいのビジョンを読み取る人も、中にはいるよっていうことを知ってもらえるといい。

 ところで、ダースさんがおっしゃったのは大事なことだよ。「力を持つ存在は、周辺的だから、差別されるんだよ」ということ。例えば、1968年から石ノ森章太郎が連載した『サイボーグ009』がそうだね。サイボーグたちは「世界最終兵器」で忌むべき存在だ。だからこそ人類のために身を捨てて戦うことができるんだという設定。すごく民俗学的な設定だった。

 思えば、被差別民は、所有を認めず、所有を守るための法を認めないがゆえに、みんなが遊動を断念して定住して集住しはじめたとき、外に出ていってしまった人たちだ。だから彼ら非定住民=被差別民は、みんながかつてそうだった遊動民と違って、定住拒否とその理由に自覚的なんだね。自覚的に所有を認めないので、当然、「ふざけんなこの野郎」って徹底して差別される。実際、定住民が差別するような文化を持つんだ。これは、自分も南サーミ人の血を引くアマンダ・ケンネル監督の『サーミの血』(2018年)という、南サーミ人の被差別状態を描いた映画で、詳細に描かれていた。主人公の南サーミ人の少女には所有の概念がないんだね。

ダース: あれはすごい作品ですよね。

宮台:すごいよ。お祭りや性愛になると「力を発揮する」んだね。定住を認めず遊動民的なものを引き継ごうと出ていった非定住民=被差別民は、祝祭やエロスに象徴される身体性も、いろんなモノに繋がれるチャネリング能力のような精神性も、定住民より圧倒的に優れている。だから世界中のどこでも祝祭時に召喚されて、芝居や性愛の眩暈を提供してきた。なのに──というよりだから──祭りが終わった途端に差別民として放逐される。そんなご都合主義的なことを定住民は被差別民に対してしてきたということだね。

ダース: 『サーミの血』は、現在はおばあちゃんなんだけど、おばあちゃんが少女時代のことを思い出しているっていう話の中で、お祭りのシーンが出てきて、お祭りで少女が男の子といい感じになって、女の子は「この人だったら私のこと分かってくれて大事にしてくれるんだ」と思って、お祭りが終わった後にその子の家に訪ねていくっていうシーンがあって。宮台さんが言ったこと(所有概念がないので差別されること)がそこに描かれていてすごく悲しい話なんですけども。でもまさに、そういうことだっていう。

 で、あのサーミの人たちは、その役割を背負っているということを自覚しているから、そういう生き方をしていて、実はそれはある種の誇りにもなっているけど、現実社会から見ると辛い思いのほうが多い。合理的に考えたら「なんでこんな目に遭うんだ」っていうの理不尽さを、主人公が感じている。でも主人公のお母さんとか妹はもう受け入れちゃってるから、どっちかっていうとそっちのほうが幸せなんだけども、ロジカルに考えている主人公から考えると「なんて不幸な人たちなんだ」っていう。それが両方描かれているのが、『サーミの血』のすごいところだと思うんですけど。

宮台:そのとおりだね。確認すると、遊動文化を継ぐ南サーミ人だから、定住の作法として必要な所有や法の概念がない。だから、彼氏が家族たちと住む家に行くと、自分の家みたいに住んじゃうんだよね(笑)。まるでスクウォッティング(ドイツで始まった空き屋占拠運動)みたいに。これは本当に、差別問題を若い人に理解してもらうための教科書として機能する映画だよ。



関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる