宮台真司の月刊映画時評 第10回(後編)
宮台真司の『寝ても覚めても』評:意味論的にも視覚論的にも決定的な難点がある
キスと性交を描かない(描けない)真の理由
『寝ても覚めても』の物語は単純です。主人公朝子が、1.激しい恋に落ちた麦(ばく)に逃げられた後、2.瓜二つの亮平に出会い夢中になるものの、3.やがて麦と再会して駆け落ちし、4.しかし最後は思い直して亮平の元に戻る。「瓜二つの男に夢中になる」と「駆け落ち後に思い直して戻る」という契機が、「意味論的・視覚論的に説得的かどうか」がポイントです。
最も素晴らしかったのは、朝子が亮平らと会食をしているときに麦が突然現れ、朝子を奪い去るシーンです。麦はまず亮平を見、「この男は朝子に、どれだけのものを与えられるのか」と値踏みする。そして、「この程度の男なら、自分が朝子に手を差し出せばついてくる」という確信を持った──このプロセスが視線の劇で分かる。演出力があります。
男が他の男を値踏みしてその場で女を奪うーー濱口竜介監督はこのシーンに賭けたのでしょう。成功しています。1つのシーンに全てを賭ける映画があっていいと僕は思います。でも、そのことを踏まえても、映画には決定的問題が幾つかあることが気になります。それをクリアすればもっと素晴らしい作品になっただろうという意味で、率直に指摘します。
まず意味論な説得性から語ります。結論的には説得性を欠きます。官能文学やエロ小説では双子の姉妹や兄弟を相手に性交する話が繰り返し描かれてきましたが、双子の兄を好きになったから瓜二つの弟も好きになるという話はほぼ皆無です。理由は、外見が同じでも、キスの味や性交の仕方が違い、そのことで期待外れに大きく打ちのめされるからです。
「似ている」ことから、「表層の合致/深層の乖離」の意味論が生成します。具体的には、「表層が惹起する期待を深層が裏切る」という事柄です。「似ている」は、現実には様々な次元で問題になり得ます。関西弁の男が初恋の相手だった場合、初恋に破れた後に別の男と「この人も関西弁だから」と付き合い始めれば期待外れが生じます。「どこが似ていても」同じです。
表層(外面)と深層(内面)は異なるので、表層によって築き上げられた期待は深層に触れて裏切られます。これは「<世界>はそもそもそうなっている」というontological(存在論的)な摂理です。存在論的な摂理を敢えて無視して「表層だけを生きる」仕方もあり得ます。存在論を踏まえるrealism(実在論)に対し、敢えて無視するesthetism(美学)に当たります。
朝子は顔が似ているという一点に受動的に引き摺られます。敢えてする美学がないという意味で「凡庸な女」です。凡庸であるほど期待外れに打ちのめされます。だから1.~4.の展開は本来あり得ません。だから嘘臭さを打ち消すべくキスも性交も描かないという意味論的・映像的戦略を採ります。謂わば少女漫画の戦略。有効なのは中高生相手に限られます。
というのは、しかし過去の言い草です。ここ20年の性的退却は統計的に実証されています。今は、20年前の中高生レベルの観客が溢れます。男が違えばキスの味も性交の仕方(手順や愛撫法や挿入ピッチや持続時間)も違う。そもそも体臭が異なる。複数の男を知る女であれば自明に弁えているはずのこと。20年以上前であれば到底通用しない設定でしょう。
実際に、映画を見た大学生や大学院生の反応は、キスや性交を消去することで辛うじて成り立つ意味論や映像に対して、違和感を抱く向きと、抱かない向きが、二分されます。そして僕が見るところ、違和感を抱くか否かは、彼ら彼女らの性的経験値に正確に対応しています。同じ問題を、別の側面に見出すこともできます。それを確認しておきましょう。